日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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「わたしに逆らって響いてくる声」

★エドアルド・シュバイツァーというドイツの聖書学者がこんなことを語っているそうです。大自然の中に出て行ってそしてそこで神様の大いなる働きを体験するということはとてもすばらしいことだけれども、それだけではいけないのだ、と。なぜかと言うと、大自然の中に出ていって神様のみこころを自分なりに考えたりする時に、「わたし自身に逆らって神様の言葉が臨んでくることがほとんどないからだ」と言うのです(青野太潮『見よ、十字架のイエス・キリスト』より)。
★わたしたちは普段、殺人や戦争等、心地よくない情報に日々晒されているのですが、実はほとんどの場合、そうした情報に「耳をふさいで」生活しています。「オレには関係ない」と。
★そんな中で教会では、耳障りのいい、心地よい、時にはホロリとさせられるようなお話を聞くことができれば申しぶんありません。それで教会は、わたしにとって都合のいい避難場所・隠れ場所になるのでしょうけれども、それではわたしたちは「自分」というものの中から一歩も外に出ないことになります。「自分」というものの中から一歩も外に出ないのだとしたら、わたしたちは本当の意味での生きることの喜びとか、生きることの意味を知らされることがないのだと思います。本当の喜びというのは、わたしたちの予想を超えたところから、予想を裏切ってわたしたちのもとを訪れるものです。わたしたちが本当に生きることの意味を知らされ、生きることの本当の喜びを見出すためには、やはり「わたしに逆らって」響いてくる声にしっかり耳を傾ける必要があると思うのです。
by oji-church | 2012-11-22 14:54 | 牧師からのメッセ-ジ
「雀と共に地に落ちる神」

〈体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。〉(マタイによる福音書10章28~29節)。

★もとのギリシア語聖書ではこう書かれています。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。これらのうちの一羽でも、あなたがたの父なしでは、地に落ちることはないのだ」と。二羽で一アサリオン(当時最も小さなお金の単位)ということは、一羽では値段の付かないほど値打ちの無いものということです。しかしそんな雀一羽であっても、死ぬ時には神が共に抱き留めて地に落ちるのだということ。
★もともと命に値段など付かないのです。この雀と共に地に落ちる神様の姿は、その本当の命の姿、値段の付かない命の大切さ、命の重みをわたしたちに教えているのではないでしょうか。1円にさえ満たないこの小さな雀の一羽であっても、それが地に落ちる時には、その命を抱きしめて共に地に落ちる神様がおられる。どの命も、その命を抱き留める神様とのつながりの中に生かされ、また死ぬものなのです。これが命の本当の姿、つながりの中に生かされている命の姿なのでしょう。魂とは、生きるにも死ぬにも神様とのつながりの中にある命の姿のことなのでしょう。
★わたしたちはいま、命を値踏みしてそれを巡って綱引きを演じる社会に生きています。「体を殺しても、魂を殺すことのできない者を恐れるな」というイエス様の言葉は、そんな命の値踏みに引きずられて、あなたがたまで命を値踏みするようになってはいけない、という呼びかけなのかもしれません。
by oji-church | 2012-11-08 14:12 | 牧師からのメッセ-ジ
「わたしたち自身の事柄として」

★福島大学の教授で、昨年の原発事故以前から原発の問題性を指摘する働きをしてこられた清水修二さんという方が書かれた『原発とは何だったのか いま福島で生きる意味』という本を読みました。その中で清水さんは、いわゆる「原子力村」と呼ばれる政府・電力会社・学者ぐるみで原発を推進してきた人たちを批判する声の高まりに対して、控えめながら問いを投げかけています。「今度の大事故が起こった後で一斉に沸きあがったのは、いわゆる『原子力村』叩きの風潮だ。東電をはじめとする電力会社、原子炉メーカーなど原子力業界、国策として原発を推進してきた政府、業界や政府からたっぷろ研究費をもらってのし上がった御用学者、大手の広告主である電力会社に都合のよい情報ばかり流してきたマスコミ――こういった者たちが今度の事故の共同正犯だとして、つるし上げ、袋叩きにするのが『正義』になった。この風潮の中で、たとえば『国民の責任』や『電力消費地の責任』を口にするのはいささか勇気がいる」と。
★しかし今回福島に行って、彼の地に暮らす人たちの絞り出すようなお話を伺う中で感じたのは、わたしたち一人ひとりが自分自身の事柄として、自分自身もその責任の一端を負う者であると自覚しないかぎり、本当の意味で福島に暮らす人たちの苦しみを共に分かち合うことはできないだろうということでした。無論、「原子力村」と言われるグループの中にいる人たちの罪は重いと思いますが、それによって作られた原発の、その電気を利用して便利で快適な生活を享受してきたわたしたちも、やはり罪ある存在なのだという自覚です。
by oji-church | 2012-11-01 08:59 | 牧師からのメッセ-ジ