日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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「言葉にならない声に耳を傾けつつ」

★先週15日から17日にかけて、北支区東日本大震災被災支援特別委員会主催の「福島交流の旅」に参加してきました。福島県の浜通りの2教会と教会附属の幼稚園、保育園、またNPOで運営されている市民放射能測定室、さらに二本松市で除染に取り組んでおられるお寺の住職さんをお訪ねしました。
★それぞれの場所で聞かされたのは、放射能の汚染によって、人々の心が疲弊させられ、被災者同士の間でも、お互いの置かれた立場の違いが摩擦や対立を生むようになってしまっている現状です。補償を受けられているかいないか、家族と離れているかいないか、避難をしたかしていないか、仮設住宅に住んでいるのか、それとも「見なし」仮設に入っているか、仕事を見つけられているかいないか、住んでいる場所の放射線量の違い、年齢、性別、家族構成の違い等々……。一口に「被災者」と言っても、10人の方がいれば、10通りの異なる立場があり、それぞれに受けているプレッシャーも微妙に違います。そこから摩擦や対立が生じるのは、放射能の被害によって始終心配や不安を抱えながら生活することを強いられるストレスによるのでしょう。
★放射能は人の体ばかりでなく、人間同士の関係を確実に破壊するものであることを示されて、このことをどう伝えたらいいのか、重い宿題を与えられて帰ってきました。原子力発電に反対して放射能の恐ろしさを強調することは大切なことですが、現にいま、高い放射線の中で生活せざるをえず、何とかしてその被害を少しでも小さくしたいと願い、苦闘している人たちがいることを忘れることはできません。それらの方たちの声にならない声、言葉にならない言葉に、身を寄せて耳を傾けつつ、わたしたちはわたしたちで原子力に頼らない自分自身の生活を日々具体的に形作っていかなければならないと思います。
by oji-church | 2012-10-23 11:56 | 牧師からのメッセ-ジ
「ゆるしのメッセージ」であり続けるために

★礼拝の説教でパウロの書いたガラテヤの信徒への手紙をゆっくりと読み進めてきました。キリスト教のメッセージは、本来ゆるしのメッセージです。しかし、ガラテヤの信徒への手紙には、ガラテヤの教会の人々に対するパウロの厳しい叱責の言葉が記されています。聖書がわたしたちに伝える「ゆるしのメッセージ」に触れて、わたしたちはしばしば、自分にはその「ゆるしのメッセージ」を当てはめて心癒される一方で、人には変わらず「裁きのメッセージ」を投げかけるということをしています。「裁きのメッセージ」とは言わないまでも、自分には「ゆるし」を当てはめる一方で、人には不平不満を抱くものです。簡単に言えば「自分にやさしく、人に厳しい」態度です。
★ガラテヤの教会の人々は、後からやって来た割礼を強調する人々の語るメッセージになびくようになっていきました。割礼を受けた人たちは、自分のことを「救いを約束された立派な人間」と思うようになりました。「救いを約束された人間」ですから、もう神様に叱られることはありません。どんなに人間的に至らなくても赦されているということになります。でも、割礼を受けていない人に対しては「お前は、赦されない。神様から裁きを受けるだろう」と厳しく当たるわけです。「自分にやさしく、人に厳しい」態度になっていきました。
★確かに聖書の語る福音は「ゆるしのメッセージ」に他なりません。だけれども、その「ゆるしのメッセージ」が真に「ゆるしのメッセージ」であり続けるために、わたしたちは厳しく自分自身と向き合わなければならない面があるのだと思います。何か自分にとって心地よい肩書きを手に入れて(例えば「洗礼を受けたクリスチャン」といった)、それでもって「自分をゆるし」、それを持っていない他人を裁く、そういう自分自身と向き合うということです。
by oji-church | 2012-10-19 15:48 | 牧師からのメッセ-ジ
霊に種をまく

《御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ちもの(よいもの)を分かち合いなさい。……自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります》(ガラテヤの信徒への手紙6:6~8)

★「肉」とは「自己中心主義」、人を犠牲にしてでも自分の都合や欲を満たしそうとする人間の有様を表しています。反対に「霊」とは〈関わり〉を表す言葉ではないかと思います。人間同士の関わり合い、神様との関わり。関わりの中で他を思う気持ちを聖書は「霊」と呼んでいるのでしょう。
★いま世の中は、目先の「よいもの」で自分を満たしたいという欲求に縛られています。小さな島を巡って国同士が渡り合い、それに刺激されて一方の国民が激すると、他方の国民もまた激するという状況です。これはまさに「悪いもの」の分かち合い、肉に種を蒔く行為に他なりません。その行き着く先はお互いの滅びしかないことは明らかです。あの島自身にどちらの国の領土になるのがいいか、聞いてみたい気がします。きっと笑って「わたしは日本でも中国でもない。ただの島だ」と答えるのではないでしょうか。
★「霊」という言葉は、人間とこの世界との関わりも表します。風は国境線を越えて吹き渡ります。わたしたちにとって本当に「よいもの」が何なのか、風や島が、自然が一番よく知っているのではないか。神様が作られたこの世界、この自然と調和して生きることが、わたしたちにとって本当に「よいもの」、ただ自分の欲を満たすだけのものではなく、誰をも犠牲とせず、他を思って生きるのにふさわしいもの、なのではないかと思うのです。
by oji-church | 2012-10-10 13:14 | 牧師からのメッセ-ジ
弱さは自分のためならず

《力は弱さの中でこそ十分に発揮される》(コリントの信徒への手紙2.12:9)

★「弱さの中で発揮される力があるのだ」と神様はパウロに告げます。それは弱っている誰かを思いやり、支える力です。誰かが弱っている時、自分は強い立場に立って、その人に指一本触れずに「がんばって、自分のことは自分でやれ」と言うだけならば、それは何の支えにもならず、その人のいのちを圧迫するだけの力です。そうではなく、弱っているその人の傍らに、自分もまた弱さを負った一人の人間として共に座し、共に泣き、共に解決を求めて頭を悩ませ、共に汗をかいて立ち上がろうとする時、弱さの中で、本当に人を支える神様の力が、わたしたちの〈あいだ〉に働くのです。
★「情けは人のためならず」という言葉があります。人に情けを掛けるのは、相手のためばかりでなく、やがては自分が助けを求めるときに、誰かに情けを掛けてもらうことになる。だから自分のためと思って、人には情けをかけるものだという意味です。これを裏返して言うこともできるのではないか。「弱さは自分のためならず」。自分の負っている弱さというものは、それを自分で、人の手を煩わす「恥」だと思ってみたり、また、自分に人の同情を引き寄せるための手段なのではなく、自分の負っている弱さとは、弱っている誰かと同じ「低み」に自分を置き、共に泣き、共に解決を求めて頭を悩ませ、共に汗をかいて立ち上がろうとする、そのようにしてその人を支えるための「力」なのだということです。
by oji-church | 2012-10-05 15:11 | 牧師からのメッセ-ジ