日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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神の願いが込められた部分

《そこで神は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです》(コリントの信徒への手紙1.12:18)

★「ご自分の望みのままに」と言われると、「神様の好き勝手に」という意味に読めてしまいます。ここで「望み」と訳されている言葉は「意図する」という意味の言葉です。平たくいえば「こうしたいと思う」ということです。「こうであってほしいと願う」という意味にもなります。そこから広がって、「好む、喜ぶ、愛する」という意味にもなります。だから、意訳すれば、神様は「こうあってほしい」「こうあれかし」という熱い願いを込めて、体に一つ一つの部分、肢を置いたのだ、ということです。
★その先の24節を、もとのギリシア語を直訳すると「神は、より劣っている部分に価値を与えて体を組み立てたのだ」となります。つまり神様は、より劣っていると思われてしまう、弱い部分、にこそ、「こうあってほしい」「こうあれかし」という熱い願いと祈りを込めて、人間のいのちを創ったのだ、ということです。人が「恥」だと思うような、情けなくて悲惨だと思えるような、弱くされた人の姿の中にこそ、そんな人の命や生活の弱い部分にこそ、神様の熱い思いが込められているということ。だから、わたしたちが神様の思いや神様を願いを知ろうとするならば、自分自身や人の弱い部分にこそ、まなざしを向けなければならないのです。
by oji-church | 2012-09-27 13:30 | 牧師からのメッセ-ジ
出会える自由

《兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい》(ガラテヤの信徒への手紙5:13)

★イエスという人と出会うことを通じて、わたしたちは自由を与えられるとパウロは語ります。それは一言で言えば「出会える自由」です。律法の掟に従って自分を清く正しく見えるように仕立て上げることが目標となっている時には、人が自分より上か下か、そんなことばかりが気になります。自分より「上」とされる人に対してはかしずき、自分より「下」とされる人間は見下す。そんな通り一遍の出会いしか得られません。あの十字架に掛けられたイエスと出会う時、わたしたちは誰が「上」で、誰が「下」か、そんなことに関わりなく、人をその人として出会うことができるようになるということです。
★信仰とは、あの十字架に掛けられたイエスという人との出会いを通じて、自分と異なる人と、何のこだわりもなく「出会える自由」を与えられることなんだ。このことを忘れてはならないと思います。そうでないと、自分の持っている(と思っている)「信仰」なるものが、人を非難し、人に挑みかかり、人を見下して、自分一人悦にいるための「道具」に過ぎないものになってしまいます。
by oji-church | 2012-09-21 16:15 | 牧師からのメッセ-ジ
「自分」とは「自ら」を「分ける」こと

★昨年の3月11日、あの大地震、大津波、それを受けて、救援活動や交流の旅、その他もろもろの用事もあり、昨年から今年にかけて、いつになく様々なところを旅しました。岩手県の釜石市には9回、福島県には2度行きました。もともとはどちらかといえば出不精だったわたしが、あちこちへと旅する中で変えられてきたという気持ちがあります。いま、ここに生きている自分というものの中に、いまここにあるばかりではない、遠くの場所にあったり、ずっと以前にあったりしたものが、でもいまここで一緒に生きている、という感覚を、少しずつ持つようになりました。
★「自分」というのは、「わたし」というこの一人の人間だけで出来上がっているのではないのです。「自分」というのは、「自ら」を「分ける」と書くように、自分の心を「わたし」一人で独占するのではなく、自分とは異なる人と自分の心を分かち合い、自分の心のうちに自分とは違う人々を共に生きづかせることによって、初めて生まれるものなのだと実感するようになりました。
by oji-church | 2012-09-13 09:10 | 牧師からのメッセ-ジ
田中正造にとっての「国」

★田中正造は、足尾銅山開発による渡良瀬川流域の農地や河川の鉱毒による汚染・破壊を、自分の身上を賭して訴え続けた人です。汚染された水を溜める遊水池を造るために谷中村が水没させられることになると、正造は谷中村に移り住み、産業開発のために農村とその環境が犠牲とされることの不正を訴えました。
★日露戦争が起こると、谷中村の若者たちは戦争にかり出されました。戦場から復員してみると、鉱山会社の開発のために自分たちの村が破壊されているのを彼らは目にします。彼らの運命を思って正造は日記に次のように書いています。「日本魂」は(政府の戦争に行けという)命令上の必要のために叫ばれている。それは国家の半分を表すもので、残りの半分は空虚になっている。谷中の若者が日露戦争に出征したのは、政府を信頼する「日本魂」のゆえである。財産や村を守るのは彼ら自身なのに、半分が空虚な「日本魂」のために、出征中に盗賊が来て、財産や村を奪われてしまった。(以下は日記本文)「日本人汝ヂノ魂ハ半面ハ強硬ナリトスルモ、ソノ半面ハ空虚ナリ。玉ニセバ大疵物(おおきずもの)ナリ。…日本魂ナルモノ大疵物ニシテ、殆ンド今ハ半額の値(あたい)ダモナシ」。
★日本近海の小島を巡って領有権争いをしている傍らで、福島の土地が深く汚染されているのを見て、田中正造はこの百年後の「日本魂」も「大疵物」と言わないだろうか、と考えます。田中正造にとって国とは、小さな地域の中の人々の交わりや、自然環境が支えるものでした。そしてそれは国境線を越えて、もっと広い世界や宇宙の一部に他なりませんでした。一つの地域が死ねば、世界全体が体の一部を失う痛みを味わうのだ、と。島の取り合いを演じる前に、そういう世界観を、わたしたちはもう一度感じ受ける必要があるのではないでしょうか。
by oji-church | 2012-09-05 10:41 | 牧師からのメッセ-ジ
平和とは、不均衡・不公正を正すこと(3)

★原子力はその利益を享受する人たちがいる一方で、そのための犠牲となる人たちを必ず生み出す仕組みの上に成り立っているのです。今回の事故は福島の人々がその犠牲者となるべきあらかじめ割り当てられていたことを明らかにしました。そればかりではありません。今回の事故の収束のために多くの人たちがあたらされている作業は、明らかに被曝作業です。今回の事故でその作業員の健康診断をした医師の証言では、約八割が地元の人で、避難所から通っているとも言われます。そもそも原子力発電所は、普通に稼働させるだけでも、被曝労働を必要とします。その作業に当たるのは、電力会社の下請け、孫請けの会社であり、日雇い労働者です。
★また、原発の燃料として使われるウランを日本は、オーストラリア、カナダ、ナミビア、ニジェールといった国々からの輸入に頼っていますが、採掘労働者の被曝、放射能に晒された周辺の住民、とりわけ先住民族、少数民族の人たちがその被害を被っています。さらに、原子力発電は必然的に放射性廃棄物を生み出します。その処分場はまだ決まっていませんが、政府はその候補地を挙げています。それらの多くも人の少ない過疎の地域です。
★今回の事故は、原子力がそのように犠牲にする側の人間と、される側の人間とを造り出す仕組みをはっきりとわたしたちの目の前に表しました。わたしたちは、やはり自身の生活のあり方を根本的に考え直さなければならないところに立たされています。もはや知らなかったと言うことはできないのですから。
by oji-church | 2012-09-05 10:40 | 牧師からのメッセ-ジ