日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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平和とは、不均衡・不公正を正すこと(2)

★原子力発電所が無ければ、地震や津波があったとしても避難する必要の無かった人たちが大勢います。しかもそれは一時逃れるだけという避難ではありません。いつまで続くとも知れない故郷喪失を強いられている人たちがいるのです。また、避難した場所にあっても、まき散らされた放射能のそばで暮らさなければならない人たちがいます。その影響がどのように現れるのか、不安に脅かされながら、これから生きていかなければならないのです。
★わたしたちはあの3月11日の前と後で、変わらず自分の家に暮らし、電気を使って生活しています。その電気を作るための発電所でした。福島県は東北電力の管轄下にありますが、その福島にある福島第一原子力発電所は東京に暮らすわたしたちが使うために造られた東京電力の持ち物です。わたしたちがこの東京においうて電気を使うために、福島の人々が家を奪われ、故郷を奪われ、家族の生活と団らん、そして健康と命を奪われかねない、そんな危険にさらされていたのだということを、今回の事故は明らかにしました。こんなことになるまで、一部に警鐘を鳴らす人たちがいたにもかかわらず、その声に耳を傾けてみることもせず、そうした不均衡や不公正に気付かずにいた、そしてその不均衡や不公正の上に、自分たちの快適な生活を形作ってきたわたしたち自身の罪を思わずにいられません。(つづく)
by oji-church | 2012-08-22 15:55 | 牧師からのメッセ-ジ
平和とは、不均衡・不公正を正すこと

★平和とはただ戦争がないことではありません。人と人、人間と自然・人間以外の生命との間の不均衡や不公正を正していく不断の努力です。イエス様は「二人、または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」と言われました。「福音」とは、単にわたし一人の幸福感のことではなく、人と人の間にあるものです。たとえわたしがどんなに幸福感に満たされていても、わたしの傍らにある人との間に不均衡や不公正があるならば、それは「福音」ではありません。そういう意味で、福音を宣べ伝えることと、平和について考えを深め平和を形作って行くこととは一つです。
★東日本大震災によって、余りにも多くの人のいのちが失われ、いまもなお、大勢の人たちが苦闘の内にあります。わたしたちは、被災された方々のそばに少しでも寄り添って、長い時間をかけて共に歩む歩みを続けていかなければなりません。しかし地震や津波そのものは天災であり、だれもが遭遇する可能性を持っています。そういう意味では地震や津波そのものは不均衡とも不公正とも言えるものではありません(もちろん経済的格差のために危険な場所に暮らさなければならないという場合もあります)
★地震と津波に続いて、わたしたちは原子力発電所の事故を経験しました。いまもなお終わってはおらず、遠い将来にいたるまで、わたしたちはその計り知れない被害に脅かされる状況になっています。この状況をつぶさに省みていくと、そこにさまざまな不均衡や不公正が積み重なっていることが分かります。(つづく)
by oji-church | 2012-08-22 15:54 | 牧師からのメッセ-ジ
福音を信じるとは、誰かのそばにいること

★「悔い改めて、福音を信じなさい」。悔い改めるとは、自分のこころのありか、まなざしのありかを変えるということです。「福音」とは動きのあるもの。そして神様はわたしたちのすぐ近くのそこここで細々と、かいがいしく働いておられるということ。そしていまイエス様が「悔い改めて、福音を信じなさい」と呼びかけておられます。だから、わたしたちも体を動かし世に仕える働きを、て世のため人のために役に立つ働きを、かいがいしくしなければならないと思ってしまいます。それは確かにとても大事なことです。教会に欠けていることでもあります。だけれども、自分が人より優れた「いい人」になって、「いいこと」を人にして上げよう、なんて考えてしまったら、間違いになります。それは結局、自分という人間を人より一段上に上げることです。でも「ヨハネが逮捕された後」イエス様が行ったのは、人より一段上に登ることでありませんでした。そうではなくて、もともとの自分の故郷であり、そこで多くの人たちが二重にも三重にも圧迫され、蔑まれている場所、ガリラヤへ戻っていったのです。もともと自分がいた低い場所へ、もといた低みへとイエス様は戻っていった。そしてその低みで苦しんでいる人のすぐ近くに居続けようとしました。なぜなら「時は満ち、神の国は近づいた」からです。
★わたしたち「福音」とか「信仰」とか聞くと、すぐに心の中の事柄だと思ってしまいがちです。でも、福音は動くもの、体を使って動くものに他なりません。だからといって、体を使って何か「いいこと」を人に「して上げる」ということでもありません。大切なのは誰かのすぐ近くにいる、ということ。
by oji-church | 2012-08-08 12:30 | 牧師からのメッセ-ジ
いま、この時の中に

★「時が満ちた」と聞くと、わたしたちは「ちょうど時間となりました」。約束の時間がやってきたと、そんな時間のことを思い浮かべがちです。時計で計る時間のことを。でもここで用いられているのは、そういう時計で計るような時間のことではありません。そもそも当時は時計などはありませんから、時間を正確に計ることなどは出来ません。ここで使われている「時」という言葉は、「いま、この時」というような意味の言葉です。「いま、この時」が満ちあふれている。いま、この時の中に何かが充満しているということ、それが「時が満ちている」という言葉の意味なのです。では、いま、この時の中に、いったい何が充満しているというのでしょうか。それはその次にイエス様が言っていることと関係しています。次にイエス様は「神の国が近づいた」と言います。「神の国」という時の「国」という言葉も、わたしたちが普通に思い描く国境線で囲われた「国」というものではありません。それは普通一般には「支配」と訳される言葉です。「神の国」とは「神の支配」ということです。
 聖書を読むと、神様はこの世界を片時も離れず、細やかな配慮を持って、あれにもこれにも、細々としたこと一つ一つに至るまで、この世界のいわば面倒を看る神様であることが分かります。それは細々と働く神様です。ですから「神の支配」とはいわば「神の働き」と言い換えてもいいものです。つまり、「時が満ち、神の国が近づいた」というのは、いま、この時の中に、神様の細々として働きが、あそこにもここにも、わたしたちの生きているこの世界のすぐ近くに充ち満ちている、ということなのです。
by oji-church | 2012-08-01 15:18 | 牧師からのメッセ-ジ