日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「役立たずの救い主?」(2)

★福音書を読むと十字架に掛けられたイエス様に向かって叫ぶ人々のこんな言葉が書かれています。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」。で、実際にイエス様は十字架から降りることができません。他人は救ったのに、自分を救うことができません。「他人は救った」ことはまったく評価されません。「自分で自分を救えない」人間はダメな人間だという物差しなのです。
★キリスト教の信仰というのは本来、自分で自分をかっこうよく立派に見せるためには何の役にも立たないものなのです。イエス様は自分を立派に見せるためには本来、全く役に立たない救い主なのです。でも、自分で自分を救えなくても、誰かに助けられつつ、誰かを助ける。そういうつながりを作っていくとき、イエス様は十字架に掛けられながらも、限りなく心強いわたしたちの仲間となって下さることでしょう。それがどんなに世の嘲弄を受ける「役立たず」の救い主、それに導かれる役立たずの人間の集まりであったとしても、そこに教会はあるはずのものです。この、「自分で自分を救う」ことへの「役に立たなさ」にこそ、わたしたちは誇りを持って歩んでゆきたいと思うのです。
by oji-church | 2012-06-21 09:14 | 牧師からのメッセ-ジ
「役立たずの救い主?」(1)

★当時ガラテヤの教会の人々が入れあげていた信仰のあり方というのは、今言われる「自己責任論」のようなものかもしれません。ユダヤ教の律法に従って割礼を受け、自分で自分を清く正しく仕立て上げた者だけが救われるという考え方。ダメな奴というのは、この律法の掟に合わせて自分で自分を清く正しく仕立て上げる努力が足らないのだ。そんな奴は地獄に落ちても仕方がないという考え方。ダメな奴は壁の向こう側に追い出すやり方。壁のこちら側は、自分で自分を清く正しく立派に仕立て上げることのできた人間だけで成り立っているのだという考え方。
★そういうガラテヤの教会の人々の考え方に対して、パウロはこう言うのです。「もしもあなたがたが割礼を受けるなら(つまり自分自身を清く正しく仕立て上げることばかりに心奪われて、俺は十分立派に自分を清く正しく立派に仕立て上げることができている、なんて自分にうっとりしているようならば)、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になる」と。つまりあなたがたが、自分で自分を清く正しく仕立て上げた者だけが救われると考えて、ダメな奴は壁の向こう側に出て行け、なんて思うのだとしたら、役立たずのダメ人間にしか見えなくなってしまうだろう、ということです。たしかにイエス様は、自分で自分の身を清く正しく立派に仕立て上げようなどということにはほとんど気を遣っていなかったと思います。そして事実、罪人として逮捕され、鞭打たれてほこりと血と汗にまみれて、汚い姿で十字架に掛けられて、町の外、家の外、路上の道端にうち捨てられ、惨めに死んでいった人間です。
by oji-church | 2012-06-16 15:05 | 牧師からのメッセ-ジ
「相手中心の『熱心さ』」(3)

★このすぐ前の場面には、パウロとガラテヤの教会の人たちの出会いが語られていました。パウロは体が弱くなったことがきっかけでガラテヤの人々と出会うことになりました。彼ら・彼女らはパウロのことを忌み嫌うことをせず、懇切に看病してくれた。あたかもキリストででもあるかのように。パウロの目が悪くなっていると言えば、自分の目をえぐり出してでもパウロに与えようとさえしたと。パウロは病気のために手も足も出ない弱い存在になり果てていました。ガラテヤの人たちも貧しい山村に暮らし、決して強い存在ではありませんでした。この弱い者同士を固く結び合わせたのは、ご自身十字架に付けられて手も足も出会い弱い存在となられたイエス・キリストであった。弱い者同士が相手を助け、相手に助けられる関係を結ぶ時、そこにイエス様も共におられるのだということです。そういうキリストが「あなたがたの内に形づくられるまで、もう一度」ということなのでしょう。
★灰谷健次郎さんの『太陽の子』という作品の中にこんなセリフが出てきます。「いい人ほど勝手な人間になれないから、つらくて苦しいのや。人間が動物と違うところは、他人の痛みを、自分の痛みのように感じてしまうところなんや。ひょっとすれば、いい人というのは、自分のほかに、どれだけ、自分以外の人間が住んでいるかということで決まるのやないやろか。」
★「自分の中に、自分以外の人間が住んでいること」。それこそが、自分中心でない、相手中心の「熱心」ということ、そしてまた、「キリストが自分の内に形づくられること」なのではないでしょうか。
by oji-church | 2012-06-16 15:04 | 牧師からのメッセ-ジ
「相手中心の『熱心さ』」(2)

★相手を中心にして「熱心」になる、ということは簡単なようで、実は結構難しいことかもしれません。よく「あなたのためを思って、やっているのよ」なんて、それこそ「熱心」に怒られました。今では自分が自分の子どもに言ったりしているのですが。でも往々にしてその「あなたのため」は当人にとっては、こちらの事情をまったく理解しない、ありがた迷惑でしかないということが起こります。結局口では「あなたのため」と言いながら、それはそう言う方の願望を満たしたいだけの「熱心」だったりするのです。(つづく)
by oji-church | 2012-06-16 15:03 | 牧師からのメッセ-ジ