日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「相手中心の『熱心さ』」(1)

〈あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心にしたわれるのは、よいことです。〉(ガラテヤの信徒への手紙4章17~18節)
★今、教会に集まる人が減っている中で、「伝道に熱くなる教会」ということが叫ばれています。しかしその「熱心さ」がただ自分の勢力を拡げたいという、自分を真ん中に置いた意図でなされる「熱心」であるならば、それは「善意からの熱心」とは言えないでしょう。次にパウロはこう語っています。「わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも善意から熱心に慕われるのは、よいことです」。ここは訳し方が悪いと言いたいです。こう訳すと、あたかもパウロが、自分があなたがたのもとにいるときだけにかぎらず、あなたがたはわたしのことを善意から熱心に慕うべきだ、それこそが「よいこと」なんだと要求しているように読めてしましいます。そうではなくてここのところを元のギリシア語にそって訳すとこうなります。「よいことにあって熱心に求められることは、よいことだ」。何を言っているのかよく分からない言い回しですが、原文通りに訳すとこうなります。
★恐らくパウロが言っているのは、自分が慕われることよりも、ガラテヤの教会の人たちがよいことのために熱心に呼び求められることは、よいことだと言っているのだと思います。つまり「熱心」というのは、「俺の方を向け」という自分中心でなされるべきものではなく、「あなたが大事なんだ」「あなたが必要なんだ」という「あなた」を中心にして、相手を中心に置いてなされるべきものなのだということをパウロは語りたいのではないかと思うのです。(つづく)
by oji-church | 2012-05-23 14:45 | 牧師からのメッセ-ジ
「もう子どもじゃない」(2)

〈同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。しかし時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。〉(ガラテヤの信徒への手紙4章3~4節)
★パウロはここまで、ユダヤ教の律法の掟が、子どもの後見人・管理人だと語ってきました。でもガラテヤの教会の信徒の人たちは、もともとユダヤ人ではありません。ユダヤ教の律法の代わりにローマ帝国にはありとあらゆる神様を崇める宗教がありました。それぞれに聖なる日にちが定められていたり、なすべき儀礼が定められていて、それを守って生活することが求められていました。そういう有様をパウロは「世を支配する諸霊に奴隷として仕える」と語り、10節では「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています」と言っています。
★日本社会もこれとあまり変わりません。いわゆる神道や仏教といった宗教そのものだけでなく、日本人が気にするのは、干支、星座、血液型、方角、大安や仏滅といった暦、名前の字画等々、数え上げればきりがありません。これらがキリスト教に基づいていないからいけないというのではありません。でも、こうしたことが次から次へと節操なく取り込まれることの背景には、自分で考え、自分で判断することに未熟な日本の社会の幼稚さ、子どもっぽさがあるとは言えないでしょうか。
★律法の掟や諸宗教の儀礼という、人を監視する力から解放されて、わたしたちはもう子どもではない。一人前の人間として、ユダヤ教の律法の掟という檻からも、諸宗教の儀礼という檻からも出て、のびのびと野山を歩き、谷の百合を見つめ、空の鳥を眺めたように、わたしたちもそうした檻から外に出て自由に遊ぶのでいいのだ、というのがパウロの呼びかけなのです。
by oji-church | 2012-05-17 13:54 | 牧師からのメッセ-ジ
「もう子どもじゃない」(1)

〈同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。しかし時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。〉(ガラテヤの信徒への手紙4章3~4節)

★パウロは、神様の約束を人間社会の相続を例に挙げて説明しようとしていますが、そこでパウロが言おうとしているのは、人間の相続の場合、子どもの内は相続は約束されていても、実際に親の財産を相続することは許されず、後見人や管理人の監視下に置かれるということです。
★子どもというのは何をしでかすか分かりませんから、親の財産を受け継いだりしたらあっという間に無駄遣いしてしまいかねない。だから親の財産を相続することは約束されていても、すぐにそれを受け継ぐことは許されず、後見人や管理人に見張られているというのです。で、この後見役、管理役が律法の掟であったというのです。律法の掟であれをしなさい、これをしなさい、あれをしちゃいけない、これをしちゃいけないと指図されてきた。子どもだったから。でもわたしたちは今や、イエス・キリストと出会ったのだ。イエス・キリストが十字架に掛けられたままの姿でわたしたちの前に現れて、こんなにも汚れ、捨てられ、惨めな姿となったとしても、神様はわたしたちを決して見捨てはしないということを教えてくれた。そのことをイエス様から教えられたわたしたちは、もはや子どもじゃない。何が本当に大切なことで、何が本当に必要なことで、何が本当に守らなければならないことで、何が本当に正しいことなのか、律法の掟によって「ああしなさい」「こうしなさい」「あれをしちゃダメ」「これをしちゃダメ」と指図されなくても、自分で祈り、自分で神様と対話し、自分で考え、自分で判断して、神様と共に歩む「おとな」になったのだ、ということです。(つづく)
by oji-church | 2012-05-09 10:59 | 牧師からのメッセ-ジ
「顔の見える教会」

〈わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である〉(ヨハネによる福音書15章12節)
★2月22日の2012年度王子教会定期総会で新年度の教会の主題を「顔の見える教会」としました。このところの教会の状況は、だんだんといわゆる「高齢化」が顕著となり、それに伴って礼拝に出席できる人の数も限られてきています。しかし教会の課題はそうした「数」の部分にあるのではないと思っています。
★教会の課題とはつまるところ、いつの時代にもどんな状況にあってもただ一つ、「福音を宣べ伝える」ということにあるのだと思います。「福音」とは、「喜ばしい知らせ」という意味です。それを「宣べ伝える」ということは、自分以外の誰かの存在を前提としています。わたしたちは自分以外の誰かから「喜ばしい知らせ」を受け取り、それをまた、自分以外の誰かに「喜ばしい知らせ」として伝えるのです。
★自分一人分の「喜ばしい知らせ」は沢山あります。しかし自分以外の誰かと分かち合うことのできる「喜ばしい知らせ」は、誰かと顔と顔とを合わせて出会い、その労苦を分かち合うことによってしか得られるものではありません。
★都会では、人と人との触れ合いにまつわるいろいろな「煩わしさ」を避けようとして、人々はお互いの間に「無関心」「没交渉」という「空白地帯」を設け、人の苦しみは「自己責任」として捨て置かれます。しかしそのような都会のあり方が、地方に犠牲を強いて省みない、罪深いものであることが、今回の大震災では明らかになったと思います。わたしたちは、不特定多数の中に隠れた誰でもよい一人ではなく、神様から愛を受けて「あなた」と呼びかけられた、かけがえのない「わたし」となって、出会う一人また一人の存在を大切に受けとめて「あなた」と呼びかけ、その苦しみや悲しみを共に感じ受ける一人の人間へと立ち帰ってゆく必要があります。
by oji-church | 2012-05-05 12:29 | 牧師からのメッセ-ジ