日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「『キリストの体』として生きる」(2)

★福音書には、イエス様が五千人以上の人たちとわずかなパンと魚を分かち合ったという場面が語られています。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教えられ始めた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエス・キリストのそばに来て言った。『ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。』これに対してイエスは、『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』とお答えになった」。
★イエス様は弟子たちばかりでなく、イエス様の後をつけて駆けつけた大勢の群衆に対しても、その「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」みました。この「深く憐れむ」というところには、ギリシア語でもともと「はらわた」という意味の言葉が使われています。恐らくこの人たちは空腹で、また身なりもみすぼらしく、何ら希望を持てないような姿をしていたのでしょう。その姿を見てイエス様は「はらわたの千切れる思い」、断腸の思いがしたというのです。そして弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と呼びかけるのです。弟子たちは「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言って、これらの人たちとの出会い・つながりなど、自分たちには及びもつかないと考えました。そこにあったのはわずかに五つのパンと二匹の魚だけででした。とても五千人以上の人たちの空腹を満たすことにはなりません。でもイエス様はそれらのパンと魚を集めて、それを手に取って「天を仰いで賛美の祈りを唱えて」それを裂いて皆に配ります。するとすべての人が満腹したと言います。
★恐らく「罪人を招き」「仕えるために」生きるというのは、こういう振る舞いを指しているのでしょう。弟子の集まりという枠を超えて、自分たちにとってとても及びもつかないと思える新しい出会いへと自分自身を開いていくことです。弟子たちはそれまで五千人もの人たちと一緒に食事などしたことは無かったでしょう。初めての出会い、まだ見ぬ出会いです。でもそのまだ見ぬ出会いへと自分自身を開いていくことが、「罪人を招く」「仕えるために」生きるということなのだと思うのです。
by oji-church | 2012-02-29 12:22 | 牧師からのメッセ-ジ
「『キリストの体』として生きる」(1)

★教会は「キリストの体」であると聖書には語られています。いまここに、この教会という場に集まって隣り合って座っているわたしたちの集まり、つながりが一つのイエス様の体となって、この世に今もイエス様が生きておられることの目に見える形なのだということです。
★そこで、イエス様という人がどのように生き、どのように働かれたかを考えてみなければなりません。福音書にはこんなイエス様の言葉が語られています。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。またこんな言葉も。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。
★わたしたちがいまここに、この教会という場所に共に集まっており、それが「キリストの体」であるということは、わたしたちが一緒になって、このように、このイエス様のように「罪人を招き」「仕えられるためではなく仕えるために」生きるのだということです。
★では「罪人を招く」とはどういうことでしょうか。「仕えるために」生きるとはどういうことでしょうか。(つづく)
by oji-church | 2012-02-24 14:16 | 牧師からのメッセ-ジ
「弱い部分の美しさ」

★「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(Ⅰコリント12:22)。体の中で弱そうな部分は無いに越したことはないだろうと思ってしまいます。それに対してこう書かれています。「体の中で価値がないように見える部分に、わたしたちはより多くの価値を置く。わたしたちの中の見苦しい部分は、(実は)より多くの美しさを持っているのだ」(Ⅰコリント12:23私訳)。そうパウロは言っているのです。世間一般の人たちが「恰好が悪い」「価値がない」と見なすような部分に対して、わたしたちはそうではない。わたしたちはそこの部分をこそ大切にするのだ、という「決意」「決心」をパウロはここで語っているのです。そう決心して、その「恰好が悪い」「価値がない」と世間一般で思われている部分に自分自身を結び合わせていく時、実はその「恰好の悪い」「価値がない」と思われている部分こそが、本当は美しいものなのだということが分かってくる、ということです。
by oji-church | 2012-02-15 13:00 | 牧師からのメッセ-ジ
「真の文明は」

★先日、東日本大震災で津波の被害を受けられた被災者の方から、初めてこういう言葉を聞きました。「がんばれ」「がんばろう」という言葉が、被災した者にとっては厳しい言葉として響くと。被災者はもう十分頑張っているのだ、と。被災された方からそういう言葉を聞いたのは、わたしにとってはそれがほとんど最初でした。震災から10ヶ月が経ってようやくそういうことが口にできるようになったのかもしれませんし、また、少人数の場所だったから言えたのかも知れません。
★辞書で「絆」という文字を引くとこう書かれています。「馬の足にからめてしばるひも。また、人を束縛する義理・人情などのたとえ。しばって自由に行動できなくすること」。もしかしたら「絆」という言葉の裏には、復興に向けて「がんばっている理想的な被災者」像に被災された方々を縛り付けようとする無言の圧力が働いているかもしれません。「強いニッポンよ、もう一度」というようなかけ声が充満し、その足手まといとなるような者は切り捨てることを「復興」と言うのであれば、「絆」も「復興」も、害こそあれ、何の益もありません。
★先日、田中正造のことを取り上げたテレビ番組を見ました。足尾銅山鉱毒事件で鉱毒の被害を受け、政府の政策によって鉱毒を溜める遊水池の底に沈められようとする谷中村に移り住み、政府に対して抗議の声を挙げ続け、全財産を投げ打って被害者のために尽くしたのが田中正造です。その田中正造がこう語っています。「真の文明は、山をあらさず、川をあらさず、村を破らず、人を殺さず」。田中正造が谷中村で被害の調査の最中に倒れ亡くなった時手元に残っていたのは、小さな信玄袋の中に日記帳、大日本帝国憲法の冊子、石ころ数個と鼻紙、そしてマタイ福音書の小冊子。それだけだったそうです。そういう田中正造の歩みの中には、「強さ」を目指すのとは違う、わたしたちの本当にあり得べき姿が示されているように思っています。
by oji-church | 2012-02-08 17:12 | 牧師からのメッセ-ジ
「全能を断念する神」

★一昨年秋から、木曜日の祈祷会でヨブ記を読み進めてきました。その間に東日本大震災を経験し、先週ようやくヨブ記をほぼ読み通しました。
★ヨブ記に響いているのは「無垢な人が、なぜこのような苦しみを経験しなければならないのか」という問いかけです。その問いかけに答えて最後の現れる神様の答えは、天地万物の創造を語り、「お前にこれができるか」とヨブに問い返すもので、今風に言えば「逆ギレ」とも読める、にわかには納得のいかない答えです。
★しかしその奥底に響いているのは、他ならぬ神様の苦悩ではないかと思うようになりました。すべての生きとし生けるもの、この世界の森羅万象が自らの存在を生き生きと喜んで自由に生きることを大切にするこの世界にあって、悪や不都合を根絶やしにすることは簡単なことではないのだという神様の苦悩です。
★そこにいるのは全能の神ではありません。全ての生きとし生けるものが己の存在を喜んで生き生きと生きられるために、自分自身の全能の力を断念する神様。自分以外の者の自由と喜びのために、自分以外の者への愛のために、自らの力を断念し、自らを折りたたむ神様、です。本当の意味でわたしたちが自分以外の誰かと共に生きようとする時、そこには自分の持てる力や自分の都合、自分の自由の断念が含まれていなければなりません。自分自身をどこかで幾分かは断念することなしに、本当の意味で他者と共に生きたことにはならないのです。
★ヨブ記を丹念に読む中で、あの大震災・津波・原発事故という災厄を超えて、「なぜですか」と問うわたしたちへの神様の答えが無言の内に響いていることを知りました。わたしたちが神様から問いかけられいている、「あなたは、他者と共に生きるために、どのように自分自身を断念しているか」という問いをしっかり自分自身に問いかけながら歩んでゆきたいと思います。
by oji-church | 2012-02-02 10:50 | 牧師からのメッセ-ジ