日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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「『弱さ』という力」(2)

★しかしパウロはその苦しみの中で一つの声を聞きます。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。
★「弱さの中でこそ十分に発揮される力」。それはわたしたちを光栄ある場所へと押し上げる力、成功や繁栄や安楽へとわたしたちを押し上げる力ではないでしょう。しかしこの力は、わたしたちが弱さ、窮乏、苦難のうちになってなお、わたしたちを愛し、赦し、わたしたちと和解し、わたしたちに平和をもたらし、わたしたちに希望を授けようと、わたしたちに手を差し伸べ、わたしたちの手を握り続ける力に他なりません。それは弱さの下に隠された神様の力、救い主イエス様の力です。
★パウロは伝道の生涯を歩み通し、やがて殉教の死を遂げますが、パウロの生涯は決して誇らかな成功と勝利には至りませんでした。パウロは生涯、病ある弱さの内にその人生の道を歩んだのです。しかしそれはただ独りで生まれ、独りで消え去っていった道ではなく、あの十字架のイエス様、弱さのただ中に共におられるイエス様と手を携え、共に歩み、そして死を越えて弱さの中に共にある道でありました。
by oji-church | 2011-11-23 09:16 | 牧師からのメッセ-ジ
「『弱さ』という力」(1)

〈思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。〉(コリントの信徒への手紙Ⅱ12:7~9)
★パウロはその身に何らか身体に苦痛を伴う病を負っていました。パウロはその苦しみを伴う病を「離れ去らせてくださるように」「三度主に願った」と語ります。「三度」とは、「繰り返し、何度も」という意味です。繰り返しパウロは自分の病が去るようにと神様に祈ったのです。それが去れば、どれだけ幸福になれるかとパウロが思っていたのです。
 しかし願いは聞き入れられず、パウロはその病から抜け出すことができなかった。おそらく病は生涯パウロを苦しめ続けたでしょう。そんな状況の中でやがてわたしたちは、「神に祈ることなど無駄だ」「神などいないのだ」と思い至るかもしれません。
by oji-church | 2011-11-23 09:13 | 牧師からのメッセ-ジ
 「はみ出しモンの神」(2)

★パウロは「正しい者は信仰によって生きる」と呼びかけます。ここで言われる「正しい者」とは「完全無欠の清く正しい人間」という意味ではありません。また「信仰」というのも、わたしやあなたの「持ち物」としての「信仰」ではありません。平たい言葉で言い換えれば、「本当に人間らしく生きようとする人は、神様との出会い、イエス様との出会い、そして隣り人との出会いによって生かされるのだ」となるでしょうか。どんなに「こうあるべき」という価値観からはみ出しす部分を抱えていても、「あなたは大切な人です」と語りかけてくれる神様、イエス様、そして隣り合って生きる誰かと出会うことで、わたしたちは生きていける。清潔さを物差しとして、はみ出す人を切り捨てる価値観によって生きる人は、そういう「出会い」を決定的に失ってしまいます。そういう人が出会うのは「はみ出す」部分を隠し去った、顔の見えないのっぺらぼうの人間だけです。
★そういう出会いによって生かされる生き方を教えてくれたのは、他ならぬイエス様だとパウロは語ります。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」。そうパウロは語ります。
★イエス様は、ユダヤの社会のから切り捨てられた「はみ出しモン」、病いやしょうがいを負う人、外国人、やもめ、徴税人、娼婦といった人たちのところへ行き、その人と出会い、手当てをし、食事を共にしました。そしてそれらの人たちを切り捨てようとする人たちに対しては、厳しく批判の言葉を語りました。その結果、イエス様自身が世間の「はみ出しモン」とされ、社会から切り捨てられ、ぼろ切れのように十字架につるされることになったのです。自分自身が「呪われた人間」となられた。そうすることでイエス様は、「呪われた人間」とされた多くのはみ出し者と、どこまでも共に生きられるのです。
by oji-church | 2011-11-10 15:24 | 牧師からのメッセ-ジ
「はみ出しモンの神」(1)

《律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を耐えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです》
(ガラテヤの信徒への手紙3章10節)
★パウロは「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われている」と言います。なぜなら「『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてあるからです」。ここのところをもとのギリシア語通りに訳すと「行うべきと律法の書に書かれていること全てに留まらない者は、呪われている」となります。つまり、「こうあるべき」と告げる律法の掟に人は縛られていて、そこからは少しでもはみ出す者は、神様に滅ぼされるべき「呪われた人間」になってしまうということです。実際聖書にはそう書かれていると言うのです。
★でもパウロが語るのは、実は人間誰しもが掟に「こうあるべき」と定められたところからはみ出してしまう、いかんともしがたい自分を抱えているんだ、ということです。だから律法の掟から出発すれば、誰しもが本来「呪われた人間」になってしまうんだ、ということです。
★本来人間誰しもが「はみ出しモン」なのです。多くの人たちが「こうあるべき」から「はみだす」部分を抱えながら、それを何とか隠しながらやりくりしている。でもどうにもならない深みに人ははまり込んでしまう時がある。そんな人を、社会の清さ、清潔さ、社会の純潔を守るためと称して、次々に切り捨てていく。イエス様やパウロの当時のユダヤ人の社会はそんな社会になっていたのです。わたしたちの暮らしている社会も、いつでもそんな、清潔さを物差しにした切り捨て社会になっていく瀬戸際に立っていると言えます。でもそんな社会の中で、人と人との出会いや結びつきは、どれほどやせ細って貧しいものとなっていくことでしょうか。
by oji-church | 2011-11-10 15:24 | 牧師からのメッセ-ジ