日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「被災地で教えられたつながり」(2)

★そのようにして被災地・岩手の教会や幼児施設を回る中で考えさせられたのは、教会とは何なのだろうか、キリスト教とは何なのだろうかということでした。このように一つ一つの教会が小さく弱くされた中で教会を建て、キリスト教の伝道・宣教・牧会を行うということは、どういうことなのだろうかということです。それは、クリスチャンという肩書きであるとか、洗礼を受けて教会に所属しているという教会の籍であるとか、聖書やキリスト教の教理についてよく知っているとか、クリスチャンらしい品行方正な生活をしているとか、そんなことではなく、弱く小さくされた者同士が、弱く小さな中にあってお互いに思いやり、支え合い、助け合うこと、そのことそのものが教会であり、キリスト教なのだということです。
★最後にお訪ねした花巻市内のある教会は、今回の地震・津波では被災されませんでしたが、1994年の三陸はるか沖地震で会堂が壊れ、使用不能となりました。その教会の信徒は17名。礼拝出席は9名です。そのとき、近隣の教会の信徒さんたちが皆集まって祈り、励まし合い、会堂再建のための募金を求める手紙に、近隣の教会の信徒さんたち皆で言葉を書き添えて送ったということを奥羽教区議長がお話しされました。東京の教会ではまず考えられないことでしょう。
★「わたしたちは無力で、どうすることもできません」と奥羽教区議長はお話しされました。けれども、祈ることを通じて、お互いを思いやり、支え合い、助け合ってきたと言われます。そのことを抜きにして教会もキリスト教もないということです。
by oji-church | 2011-10-26 08:31 | 牧師からのメッセ-ジ
「被災地で教えられたつながり」(1)

★先々週は2泊3日をかけて北支区の被災教会との交流の旅に参加してきました。7つの教会と4つの幼児施設を巡り、祈り合う時を持ちました。慌ただしい中にあっても、どこへ行っても皆笑顔で迎えて下さり、本当に温かい交わりをいただき、血の通った「人間」に出会ったという実感があります。
★今までの釜石という点とのつながりが、面としてのつながりを与えられて、より広いつながりの中で、関わりを保っていけるという希望を持てました。
★それは、奥羽教区のそれぞれの教会が自分の教会のことだけではなく、常に近隣の教会同士を思いやりながら、互いに支え合う関係を培ってこられた結果であると思います。今回巡らせていただいた7つの教会はいずれも小さな教会です。そういう中で、会堂が津波や地震によって壊され、また信徒やそのご家族が今回の津波で亡くなられたり、家を流されたり、病に倒れられたりしておられるのです。それぞれの教会が弱く、小さくされているからこそ、互いに思いやり、助け合い、支え合うのですが、それ自体決して楽なことではありません。
★幼稚園や保育園も同様に建物が被災し使えない状況があります。もとの場所に戻ることもできず、新しい土地を探し、借金をして建物を建てなければなりません。前の園舎を建てた時の負債が残っている幼稚園もあります。その中で、親御さんが職を失ったり、家を失った家庭に対しては保育料の減免をしてもいます。それでもなお子どもたちを守るために、園長が一人で遠く離れた仮設住宅を園バスで、毎日総計100キロの道のりを2時間掛けて回り、園児を迎え入れておられる幼稚園もありました。(つづく)
by oji-church | 2011-10-26 08:30 | 牧師からのメッセ-ジ
「出会いによって生きる人」

《だから信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました》(ガラテヤの信徒への手紙3:6~8)
★「信仰によって生きる人」と言うと、固い信仰を自分のものとして、自分を律して生きる立派な人というイメージが浮かんできますが、そもそも聖書で語られている「信仰」という言葉(ギリシア語で「ピスティス」)は、人が自分の「持ち物」として自分の心の中に携えているものではないのです。それは誰かと出会い、その相手を大事に思う気持ちから相手を裏切らないで、誠実に向き合いたいと思う気持ちを表す言葉です。聖書の中では「神のピスティス」と語られている箇所もあります。これを「神の信仰」なんて訳したら、いったい神様は、ほかのどの神様を信仰しているのかということになってしまういます。
★「神のピスティス」とは、神様が人間と出会い、人間を大切に思う気持ちから、決して自分は人間を裏切ったりはしないぞと神様が人間に約束する、そういう神様の誠実さという意味です。
★ここの「信仰によって生きる人」も、人間を大事に思って決して人間を裏切らないぞと約束して下さる神様の誠実さに寄り頼んで生きる人、ということです。これではややこしいというのであれば、いっそのこと「出会い」と訳してみたらどうかと思います。「出会いによって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は神が異邦人を出会いによって義となさることを見越して、『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました」。このように読んだ方が、意味が伝わるのではないでしょうか。
by oji-church | 2011-10-13 10:24 | 牧師からのメッセ-ジ