日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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「神にかたどって創造されたわたしたち」(3)

★当時、バビロニアの国でも「神と同じ姿」をしているとされた人がいました。バビロニアの王です。王は現人神として世を支配する存在であり、民衆は王や貴族のために召し使いとして神が造った存在であるとされたのです。
★一方聖書は、区別なくすべての人が神様と同じ形に造られたと言います。それは、あのジェームス・ジョンソンの詩の中の神様が「赤ん坊にかがみ込む乳母のように、塵の中にひざまずき、土の塊を苦労してこね上げ、ついに自分自身の姿に造り上げた」、そういう神様と同じ形をした人間です。
★作者が「乳母」という言葉に、当時アメリカで白人から差別を受けていた黒人の母親を指す言葉を敢えて用いたように、創造物語の中で神様は「低み」のただ中で創造の働きをされます。神は「低み」のただ中から、「低み」にある人間を、「自分と同じ姿の者」として愛されるのです。
by oji-church | 2011-09-28 16:59 | 牧師からのメッセ-ジ
「神にかたどって創造されたわたしたち」(2)

★創世記1章の天地創造の物語は、ユダヤの国がバビロニアという大きな帝国に滅ぼされて、主だった人たちがバビロニアに捕虜として連れ去られてしまう、いわゆる「バビロン捕囚」と呼ばれる時代に書かれたものだと言われています。そんな憂き目の中でユダヤ人たちは、自分たちが神様に背き、人間の権力、バビロニアとかエジプトといった大きな帝国の人間の権力にばかり目を向けて神様に従わなかったから、自分たちは国を滅ぼされ、縄を掛けられて連れ去られてしまう、こんな憂き目に、神様の罰、裁きとして遭っているのだと考えたのです。故郷を滅ぼされ、異国の地に連れ去られるという悲しみと、自神様に従うことができなかったという自分自身への失望と、二重の挫折を味わっていたのが当時のユダヤ人たちでした。どこかいまのわたしたちに似ているような気もします。
★そんな中でユダヤの人々もまた、改めて「いのち」とは何なのかということを考えたのだと思います。「いのち」とは何なのかと問い続け、祈り、考えに考え、その果てに、この天地創造の言葉を与えられたのです。
★そのようにして与えられた天地創造の物語の中で神様は、この世界の万物を一つ一つ造った最後に人間を創造します。
★そこで神様は人間を御自分と同じ形に創造されたと語るのです。この言葉は、当時のユダヤの人たちにどう響いたでしょうか。故郷を奪われ、異国の地に連れ去られ、しかもそんな憂き目が、神様に従い得なかった自分たちのせいであると説かれ、負い目を負って自分自身にすっかり失望せざるを得ない状況に置かれていたユダヤの人々にとって、自分たちは神様と同じ形をしているというメッセージは、希望のメッセージとして響いたのではないでしょうか。こんな惨めな自分たちでも、なおこの姿は神様と同じ姿なんだというメッセージです。(つづく)
by oji-church | 2011-09-22 09:34 | 牧師からのメッセ-ジ
「神にかたどって創造されたわたしたち」(1)

 神は歩き回り、周囲を見渡した。
 彼が創造したすべてのものを。
 彼は太陽を、
 月を、
 そして小さな星の数々を見た。
 彼は自分の世界を
 そこにあるすべての生けるものを見た、
 そして神は言った、それでもわたしは寂しい、と。

 そこで神は座った、
 思い巡らすことのできる丘の斜面に。
 深く、広い川のそばに彼は座った、
 頭を手の中にうずめて、/神は考え続けた、
 ついに彼は思い至った、わたしわたしのために人間を造ろう!

 河床から
 神は土をすくい上げ、
 川べに彼は跪いた。
 神の大いなる力、
 太陽を輝かせて空に据え
 夜の隅々にまで星をちりばめ、
 その手の中で大地を転がした
 大いなる神が
 赤ん坊にかがみ込む乳母のように、
 塵の中にひざまずき、
 土の塊を捏ねに捏ね、
 ついに自分自身の姿に造り上げるまで。

 それから彼はその中に命の息吹を吹き込み、
 こうして人は生きる魂となった。
 アーメン。アーメン。

★ジェームス・ウェルドン・ジョンソンという20世紀の初め頃に活躍したアメリカの黒人の詩人の「創造」という詩の一節です。
★あの大津波によって、自然の働きとのつながりの中で、与えられたいのちを生きていくより仕方のない小さな人間の姿が明らかとされました。一方、原子力発電所の事故によって、そういう自分自身のあり方を忘れて、自然を意のままに操ることができると思い込んでしまった人間の過ちが明らかにされました。人間とは所詮、災害が起こればいともたやすく死んでしまう、小さく取るに足らない存在だったのか。そしてまたその一方では、自分自身の過ちに気づくこともできず、自分自身の暴走も止められず、やがては自ら自分の首を絞めて滅んでいってしまう愚かな存在なのか。いま、心のどこかにそんな虚しさが去来しています。
★そんな中にあって「神はご自分にかたどって人を創造された」(創世記1:27節)という言葉が響いてきます。それはいったいどういう意味なのでしょう。(つづく)
by oji-church | 2011-09-12 10:49 | 牧師からのメッセ-ジ
「弱さを育んだ地球の歴史」

★先週は王子教会の創立118年記念礼拝でした。本来教会の歴史を振り返る時ですが、礼拝説教では思い切って「宇宙150億年の歴史」を振り返りました。先々週のこの欄に「地球の46億年の歴史を一週間につづめたら」という話を書きましたが、今度は「1年間につづめたら」ということを書きます。
★1月1日の午前0時に地球が誕生したとすると、最初の生命が誕生するのが3月下旬。生命が陸地に進出するのが11月中旬。恐竜たちが絶滅するのが12月26日。人間が現れるのは12月31日午後11時57分過ぎです(池内了『考えてみれば不思議なこと』より。以下、この本に書かれてあったことです)。
★最初に陸地にあがった生物は力強く陸地に邁進していったのではありません。海の中の強い生物は一番いい場所を占領して動く必要がありません。むしろそこから排斥された弱い生物が生き残りを賭けて陸地へあがっていったのです。進化の歴史の中では、弱い落ちこぼれと思われる存在こそが主役を演じるのです。
★恐竜の絶滅も同様に説明できます。およそ6500万年前、それまで1億年以上地上を支配していた恐竜が突然絶滅してしまいます。彗星が地球に衝突したことで生じた気候変動で絶滅したと思われます。大きくなった恐竜は気候の変動に順応できなかったのです。代わって生き延びたのが小さなネズミ。このネズミからすべてのほ乳類は進化しました。
★恐竜が絶滅した後、植物は花を咲かせるようになりました。それまで植物は花をつけない裸子植物だけでした。植物は花を咲かせることによって虫や鳥を惹きつけ、受粉を手伝ってもらうことによってその植生を広げていきました。代わりに虫たちは甘い蜜を得られるようになりました。一方的に食べるだけの恐竜が滅び、弱さを負いつつ互いに助け合う生物が生き延びたところに意味を感じます。人間が第二の恐竜にならない知恵と謙虚さを持つことを祈るばかりです。
by oji-church | 2011-09-07 13:56 | 牧師からのメッセ-ジ