日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「人間は自己の力量に慢じて」

《あなたがたが“霊”を受けたのは律法を行ったからですか。それとも〈信〉について聞いたからですか》(ガラテヤの信徒への手紙3章2節・一部私訳)
★漱石の『吾輩は猫である』にこんな台詞があります。「吾輩は人間と同居して彼等を観察すればするほど、彼等は我儘なものだと断言せざるを得ないようになった。……元来人間というものは自己の力量に慢じてみんな増長している。少し人間より強いものが出てきていじめてやらなくてはこの先どこまで増長するか分からない」。
★『猫』が刊行されてから今年でちょうど百年です。百年後の今、猫に言うその通りになっていると言えないでしょうか。猫が表しているのは人間の周囲にある自然です。人間は自然から「自己の力量に慢じて増長しているのではないか」と問いかけられているのでしょう。
★パウロは繰り返し〈霊〉について語ります。〈霊〉を受けるとは、心揺すぶられる経験、心を揺さぶられ、ああ、自分も心を持って、魂を持って生きていたのだと意識させられる。そういう経験です。イエスという人、十字架に掛けられて殺されるまで人々への愛を貫いた人と出会って、そういう経験をした。この経験を大事にしていこう。それがパウロの説く「信仰」というものなのです。
★こうしてパウロは、イエスとの出会いを通じて自然からの問いかけ、いのちからの問いかけを、自分自身の体そのものによって、魂そのものによって、いのちそのものによって受け止めていったのです。律法の掟とか割礼とかいった「しるし」「制度」によってでも、また「クリスチャン」という「地位」によってでもなしに。そしてガラテヤの教会の人々に改めて呼びかけます。もう一度、あの心揺さぶられる経験、イエスと出会い、自分も一人の人間として、魂を持って生きている者だったのだと気づかされるあの場所に帰ろうじゃないかと。
by oji-church | 2011-08-31 14:27 | 牧師からのメッセ-ジ
「66年と46億年」

★「原初の地球は放射能で満ち満ちていたといっても過言ではない。ウラン-238も現在量のちょうど二倍あったはずである。私たちが今日あるのも、四六億年という地球の歴史の過程で、過剰な有害放射能が死に絶え、生命の条件が整ったということにも大いによっているという事実は、心に留めておくべきことである。」(『プルトニウムの恐怖』高木仁三郎より)
★戦争後66年目の8月となりました。しかし今年は、あの大震災・津波そして原発の事故によって、もっともっと巨大な歴史=時間の中に生きている自分を考えさせられる夏ともなりました。
★46億年の地球の歴史を一週間に縮め、月曜日の午前0時に地球が誕生したとすると、人類が現れるのは翌日曜日の夜中の23時57分になるそうです。人類の歴史はわずか3分。さらにその中のホンの刹那にすぎない20世紀以後の歴史の中で、わたしたちは地球が46億年をかけて創り出してきたものを、どれだけ破壊したことでしょう。
★いま個人的に日本の近現代史に関する本を重ねて読む中で、なぜ日本人はあの戦争にのめり込んでいったのか考えさせられています。それは、民主主義をないがしろにした結果ではないかと。アジアへの蔑視・欧米への脅威に踊って冷静な判断を欠いた指導者によって戦争は引き起こされ、国の内外であまりにも多くの生命を奪う結果となりました。その指導者に自分たちの命運を預けてしまった国民の責任もあります。
★『せいめいのれきし』(岩波書店)という絵本の最後にこんな言葉があります。「さあ、このあとは、あなたがたのおはなしです。その主人公は、あなたがたです。ぶたいのよういは、できました、時は、いま。場所は、あなたのいるところ。いますぎていく一秒一秒が、はてしない時のくさりの、新しいわです」。
by oji-church | 2011-08-31 14:26 | 牧師からのメッセ-ジ
「あなたはどう振る舞うのか」

★震災以来ヨブ記が話題になっています。ヨブは不条理な苦しみを受け、神に向かって「なぜ苦しまなければならないのか」と問い続けます。しかし最後に現れた神は、結局ヨブのこの問いに答えようとはしません。
★旧約学者の並木浩一さんは、もし神がヨブの問いかけに答えてしまったら、人間のどんな苦しみもすべて神の計画の中で必然的に起こっていることになり、人の苦しみに対する他の人々の責任は問われなくなってしまうと言います(『福音と世界』8月号)。
★今年の原水爆禁止世界大会で、被爆者の児玉美智子さんは、周りで次々と亡くなっていかれた被爆者のこと、ご自身の娘さんも今年になって突然のガンで亡くされたことを切々と語られました。「被爆者は被爆者というだけで人生の節目節目で悩み苦しみ、嘆き、怒りを覚えるのです」。そして最後にこう言われました。「今日の聞き手はみなさんです。明日の語り手はみなさんです」。
★「神様、なぜですか」という問いは残ります。この世にはなお「やぶれ」があります。それでもなお神様は正義を求め、悪を欲しない、そしてこの世を愛するのだと聖書は語ります。この神様の下でわたしたちは「不当にも、人がいわれのない苦しみの中に置かれてしまうことがある。それに対して『あなた』はどう振る舞うのか」と問われているのです。
★戦後66年目の年、あの原爆の後もなお、今に至るまでわたしたちの暮らす国は核という最も大きな武器を手放さず、戦争を続けてきたことが露わになった年だと、わたしは思います。そしていまわたしたち自身が被曝の不安にさらされることになりました。「あなたが語り手」という児玉さんの呼びかけをどう受けとめ実行することができるか、共に考えていきたいと願います。
by oji-church | 2011-08-17 09:45 | 牧師からのメッセ-ジ
「戦争と原子力」

★最近ある方からこんなお祈りのお手紙を頂き、大変感銘を受け考えさせられました。ご紹介させていただきます。
★「神様、敗戦から六十六年も経ちました。戦後のつらさや苦しさ、悲しみも、すっかり忘れました。昔昔の話でした。今又、形を変えて福島の原発の問題に悩ませられ、苦しんでいます。八月六日の広島、長崎の原爆は形は変わっていますけれど、人間の受けた苦しみは同じです。“ピカドン”で天から大きな原子の雨となって、広島、長崎の町と人々は被災し、殺され傷つき七十年草木は生えないと、少ない原爆の情報に、国民は不安の中、空襲の中に生活して来ました。落としたアメリカにも意味があったかも知れないが、同じ人類を突然に危険にさらしました。神様の愛された被造物をこんな形で破壊してもいいのでしょうか。それなのに原発が導入される時に、私は大きな声で反対したでしょうか。悔やまれてなりません。それなのに、その記憶もうすれていて自分が悲しくてなりません。福島の原発は、天災と人災で再び日本の社会をおびやかしています。どうか、人間のおろかさをお赦し下さい。そしてあなたが愛して下さっている人間に、再びこの様な思いを及ぼさないでください。原爆忌を前にして、お祈りの場をお与え下さい」。
★「原子力」というのは、当初から前のめりに戦争の道具として開発され、広島・長崎において多くの人(子どもも含めて)の命を奪った「兵器」でした。それを戦後、何の反省もないままにわたしたちは用いてきて、いまこのような状況に直面しています。わたしたちは戦後66年間もしかしたらずっと戦争を続けてきたのかもしれません。そんなわたしたちが広島・長崎で命を失った人たちに見つめられていることを忘れてはいけないと思います。
by oji-church | 2011-08-10 14:20 | 牧師からのメッセ-ジ
「原子力と、いのちの出発点」

★原子力発電所の事故は自然の動きではなく、人間の行いによって起こりました。原子力という人間の行いは自然の動きにまったく逆行する行いです。原始の地球は、生命が生まれることのできない放射性物質・放射能の塊だったそうです。何億年、何十億年という月日の中で放射性物質は核分裂を繰り返し、それによって放射能を出さない物質へと変化しました。その後になって初めて生命は誕生したのだそうです。
★人間はそれを再び放射線を出す物質に変えて原子力としました。明らかに自然の動きに逆らう行いです。そして原子力を用いれば必ず放射性廃棄物が生じます。それらの放射性廃棄物の中には、放射線を出さなくなるまで何万年もかかるものもあるそうです。それを地中に埋めて処分することが計画されていますが、一体誰が何万年もの間それを管理出来るでしょうか。
★現在停まっている原子力発電所をこのまま動かさないと、電力不足や電気料金の高騰を招き、企業は日本から出て行ってしまい、日本は経済的に立ち後れた国になってしまうと言う人もあります。しかしその議論のためにはまず、本当に電力は足らないのか確かめてみなければなりません。そして、実際に福島県を中心として、子どもたちのいのち、人間のいのちの事柄が問題となっている時、もう一度、いのちの根源、人間の出発点に立ち帰って考え直さなければならないのではないかと思います。それが、いのちの事柄に関わり続けることを、神様から、イエス様から求められているキリスト教に携わる者として、教会に携わる者として、牧師という働きを負わされている者としてのわたしの意見です。皆さんはどう思われるでしょうか。
by oji-church | 2011-08-03 12:34 | 牧師からのメッセ-ジ