日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「『信仰義認』と『行為義認」」(Ⅲ)

★「信仰を持つ」ことにせよ何にせよ、この世でわたしたちのやることはすべて人間の「行い」に他なりません。パウロにとって大事だったのは、それがキリストとの出会いの中で生まれた「行い」なのかどうかという一点でした。たとえ「洗礼を受けて、信仰を告白しました」と言っても、そこにキリストとの出会いが無ければ、それはパウロにとって何にもならないものなのです。
★「わたしは洗礼を受けて、信仰を告白しました。だからわたしは神様から『正しい』と認められ、救いを約束されています」。それは確かに立派な信仰の表明に響きます。けれどもそれとて結局は人間の「行い」に過ぎません。それもそう表明するその人ひとりの。そこには敗れがありません。敗れがないから、敗れたイエス様との出会いもありません。イエス様という人は、最後の最後には十字架に掛けられて、嘲りを吐き捨てられ、呻きを挙げながら息果てるという敗れの敗れ、敗北の敗北を背負った人でした。しかし、それだからこそイエス様は敗れた者の救い主なのです。
★このイエス様と本当に出会う時、わたしたちは様々な問いかけを受けるでしょう。自分の生き方はこれでいいのか。わたしは本当になすべきことをなして生きているだろうか。そのように問われることは大切なことです。そこから信じる道は始まるのですから。
★もう一つ大切なことがあります。それは、そのような問いかけを受けながら、その問いかけに答えきれない自分自身の敗れを見出すことです。そのとき、その敗れの傍らに、やはり敗れを携えたイエス様、十字架を背負ったイエス様が、わたしの敗れを分かち合いながら、共におられるのです。
by oji-church | 2011-07-28 10:12 | 牧師からのメッセ-ジ
「『信仰義認』と『行為義認」」(Ⅱ)

★一方で、イエス様は弟子たちに「わたしに従いなさい」と繰り返し呼びかけました。「イエス様に従う」というのもやはり人の「行い」に他なりません。使徒パウロもまた、イエス様に従って当時としては驚異的な距離の旅路を、苦労を重ねて自分の体を動かして伝道して回りました。パウロは確かに「信仰によって人は正しいと認められる」という「信仰義認」の教えを説いて回りましたが、それを説いて回るパウロの働きは、人の「行い」に他なりません。そう考えてみると、「信仰によって救われる。行いによって救われるのではない」と言っても、それほどスンナリ「信仰」と「行い」を分けて考えることはできないことが分かってくるのです。
★結論からお話しすると、パウロが説いたのは、自分「一人」の行いによって自分は救われるとか、あの人は救われないとか、そんな判断をしてはならないということです。「わたしは洗礼を受けて、信仰を告白した。だからわたしは救われる」。これも自分「一人」の判断です。一見すると「信仰」を重んじているようではありますが、そこには「出会い」がありません。パウロが説いたのは、自分「一人」の立派な「行い」によって自分は正しい、自分は救われると脂下がってはならない。そうではなくて、キリストとの出会いの中で、自分が生きていることの意味、いのちの意味を知らされていきなさいということなのだと思います。(つづく)
by oji-church | 2011-07-23 12:54 | 牧師からのメッセ-ジ
「『信仰義認』と『行為義認」」(Ⅰ)

★神学の専門用語で「信仰義認」という言葉があります。「信仰によって義と認められる」、つまり、人はイエス・キリストへの信仰によって、神様のお目に叶っていると認められるという意味です。一方、その反対語は「行為義認」という言葉です。つまり、その人がどれだけ「正しい行い」をしたかによって、神様から「正しい」と認められるかどうかが決まってくる、ということです。
★イエス様の時代、またその後の弟子たちの時代の当時のユダヤ教は「行為義認」であった。それに対してキリスト教、とりわけ使徒パウロは「信仰義認」を説いたと説明されます。そこで、キリスト教の信仰は「行為義認」ではなく「信仰義認」であると説かれることになります。つまり人は、正しい行いをしたかどうかではなく、イエス・キリストを救い主と信じますという信仰を言い表すことによって救われるのだと説かれるのです。
★しかし、人の行いと人の信仰の持ちようとは、そんなにスッパリと二つに分けて考えることはできません。一般的にキリスト教では、人が信仰を持っているかどうかは、その人が教会で洗礼を受けて、「イエス・キリストを救い主と信じます」という信仰を告白しているかどうかによって判断されます。しかし「洗礼を受ける」「信仰を告白する」というのも人間の「行い」に変わりありません。とすると、その人が洗礼を受けて信仰を告白しているかどうかで、その人が「信仰を持っている」「正しいと神様から認められている」と判断することは「行為義認」になってしまうのではないかと思われます。(つづく)
by oji-church | 2011-07-23 12:14 | 牧師からのメッセ-ジ
「バベルの塔を打ち砕く言葉の豊かな恵み」

〈彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているではないか。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしよう〉(創世記11章6~7節)
★ケセン語訳聖書の著者山浦玄嗣さんは、ケセン語の聖書朗読を聞いて涙した高齢の女性の話を引いて、「イエス様は泥臭いズーズー弁で身を低くしてサクノさんに語りかけたのだ」と語ります。
★「れんがを作り、それをよく焼こう」「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」というかけ声が語られます。それは、権力を握った一部の人たちのかけ声だったと思います。バビロニアによる侵略によって故郷を奪われた人たちは、そのかけ声に有無を言わせず従わせられたのです。
★「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話している」というのも、実態は一部の人たちが自分たちの企てを他の人たちに無理強いして同じことを言わせていたのでしょう。そうしたこの町のあり方、この町を牛耳る権力者たちの企てを、神様は打ち砕いたのです。もしかしたら、それまで有無を言わせず塔の建設にこき使われていた人たちが、「自分たちはこんな企てに加担することはできない」と、自分たちの言葉で「否」の声を挙げたのかもしれません。
★ペンテコステの日、弟子たちは外国語を話したのではなく、ガリラヤ訛りの自分たちの言葉を語り始めたのではなかったか。バベルの塔の場面でも同じことが言えるのではないでしょうか。有無を言わせずこき使われていた人たちが、自分たちの声を挙げ、自分たちの言葉で語り始めたのです。バベルの塔の建設は打ち砕かれ、こき使われていた人たちはそれぞれ自分たちの言葉を携えて、故郷へと帰っていきます。それがこの場面に込められた神様の恵みではないでしょうか。
by oji-church | 2011-07-06 17:11 | 牧師からのメッセ-ジ