日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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「誰の『方便』か?」

★昨年沖縄普天間基地の県外移設の断念を表明した際に、「米海兵隊の抑止力」を理由に挙げたことについて、前首相が「方便」であったと明かしたことが論議されています。メディアはこぞって前首相のこの発言を「言葉が軽い」「沖縄に対する背信」と非難しています。
★しかし9ヶ月前、「県外移設」をうたう首相に対して、非現実的とあげつらい、ただ「迷走」とのみ報道し、首相が「抑止力」と発言したとたんに溜飲を下げて「納得」し、黙り込んでしまったのはどこのメディアだったでしょうか。
★当時、多くの本土メディアはこの「方便」にいわば便乗し、その恩恵にあずかったのです。沖縄の人々がこの前首相の発言に怒るのは当然です。しかしヤマト(本土)の人間はむしろ、その「方便」に乗り込んでしまった自分自身を恥じなければならないはずです。「方便」は、前首相一人の方便ではありませんでした。
★むしろ前首相が「抑止力は方便」と明かしたことによって、米海兵隊が沖縄に留まる理由などなかったし、現在もないのだということが、より一層明らかになりました。そのことをもう一度肝に銘じなくてはなりません。そして改めて「沖縄に米軍基地はいらない」「普天間基地は移設ではなく、閉鎖・撤退・返還すべきである」と声を挙げるべきでしょう。それをしない限りは、前首相の「沖縄に対する背信」などをあげつらう資格はヤマトの人間には微塵もありません。ヤマトは戦前・戦後を通じてひたすらに「方便」を用いてこぞって「沖縄に対する背信」をし続けてきました。今度こそ、ヤマトの「方便」の皮を剥いで、その向こうにある真実に向き合うべきです。
by oji-church | 2011-02-24 08:54 | 牧師からのメッセ-ジ
「敵を愛せと言う前に」

《ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。》(ルカによる福音書10章33~34節)

★新約聖書には「敵を愛しなさい」(マタイ5:44)という教えがあります。しかしキリスト教は繰り返し、敵を生み出し、攻撃や迫害を加えてきました。実際聖書の記述自体、この教えのすぐ後に「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。……異邦人でさえ、同じことをしているではないか。」と、徴税人や異邦人を「敵視」して軽蔑する言葉が出てくるのです。
★一方、イエス様が語った「よきサマリア人」の譬えは、強盗に遭い倒れた人が、それまでユダヤ人から「敵」と思われていたサマリア人によって愛され、助けられる出来事を語ります。「敵を愛しなさい」と人に訴えるよりも前に、実は自分が「敵」から愛されてしまっている。そういう出来事をイエス様はここで語り起こしているのです。
★「敵を愛しなさい」と麗しく人に教える前に、自分がだれかを「敵」だと思っていることは、そのだれか相手にとっても自分が「敵」となってしまっていることをまず覚えなければなりません。そして自分が「敵を愛しなさい」と人に教える前に、すでに自分自身が「敵」から愛されている、そういうことがあるんだということ。そこが大事なところなんだと。そのことをわたしたちに知らせるためにこそイエス様は「敵を愛しなさい」と教えたのかも知れないと思うのです。
by oji-church | 2011-02-16 16:23 | 牧師からのメッセ-ジ
「他者の弱さに連なる信仰の形」

《知っての通り、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身にはあなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。あなたがたが味わっていた幸福はいったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです》(ガラテヤの信徒への手紙4:13~15)

★2011年になりました。今からちょうど70年前にわたしたちの日本基督教団は成立しました。折から戦時下にあって国の統制に迎合する形で成立した教団でした。その後教団は軍国主義下、戦争と天皇讃美を重ねていくことになりました。その信仰の形を問う重い宿題をわたしたちは課せられています。
★パウロは、伝道旅行の中で体調を崩したことがきっかけでガラテヤの地方に赴きました。「あなたがたにとって試練ともなるようなこと」というのは、パウロの病いは感染が恐れられるような病気だったのかもしれません。しかしガラテヤの人びとは見ず知らずの旅人を親身に介抱し、懇切にこの旅人のことを思いやったのです。
★この最初のガラテヤの人びととの出会いのことを思い出しながらパウロは「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」(ガラテヤ3:1)と呼びかけているのではないかと思います。見ず知らずの旅人のことを我が身のことのように親身になって思いやる、そういう人と人との出会いの中に、十字架のイエス・キリストはいるのだ、そこにわたしたちの信仰があるのだとパウロは呼びかけているのです。そういう「他者の弱さに連なる」信仰の形を、パウロはわたしたちに問いかけているのだと思うのです。
by oji-church | 2011-02-10 10:15 | 牧師からのメッセ-ジ
「人を死刑にするためには」

★先週、2008年6月に秋葉原で起こった無差別殺傷事件で罪に問われている被告の公判で、死刑が求刑されました。被害に遭われた方、またその近親の方々は、かけがえのない生命を突然に奪われ、また癒しがたい深い傷を負われたことを想います。
★新聞の記事には、検察による論告の言葉が連ねられています。「犯罪史上まれに見る凶悪犯罪」「あまりに身勝手で自己中心的」「人間性のかけらも感じられない」「内省を深めた様子は見られない」「他人の痛みや苦しみへの共感が欠けており、今後の更生は期待できない」「悪魔の所業」。
★おそらく、被害に遭われた方の被告に対する心情はこのようなものでしょう。いや、これでも足りない心情であろうかと思います。しかしこの論告をしたためているのは検察官です。いや、でも検察官の務めは被告の罪状を言葉によって提示することですから、検察官は職務に忠実にしたがったまでと言えるかもしれません。
★しかし、いや待て。弁護側は「心神喪失か心神耗弱」を主張して死刑を回避することを訴える方針と記事には書かれています。つまり検察の論告は、死刑を回避しようとする弁護側の主張を退けて、あくまで死刑を実現させることを最大の目的としているのです。被告を死刑にするためには、被告が死こそが最もふさわしい「非人間」であることをどこまでも強調しなければなりません。
★しかし被告は人間ではない「悪魔」でしょうか。そうではありません。被告はそれでもやはり人間です。人を死刑へと追い込むためには、一人の人間の人間性をどこまでも否定しきらなければならないのです。一人の人の人間性を徹底的に打ち消し抹殺することによって初めて、死刑制度は成り立つものだということを教えられたような気がします。しかしその時、そのように人の人間性を抹殺する側の人間性もまた、どこかで同じように破壊されているのではないでしょうか。
by oji-church | 2011-02-04 14:44 | 牧師からのメッセ-ジ