日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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「正解を答えることではなく」

★王子教会の所属する日本基督教団東京教区北支区主催の信徒大会が1月10日に行われました。「アイしあってるかい? 出会い、知り合い、つながり合い」という主題で行われました。教会に若い人たちが少なくなっている現状の中で、若い人たちがどんな活動をしているのかをまず知ることからという目的で会が行われました。
★そこで出会ったクリスチャンでない大学生に「教会ってどんな場所に見えますか?」と尋ねたら、こんな答えが返ってきました。教会というのは、もう信仰があって救われていて、答えを持っている人たちが集まる場所のようで、自分のようなあれこれ悩んだり迷ったりしている人間は行ってはいけない場所のように映るというのです。
★実際にはそんなことはないのですが、これは教会自身の方にも大いに責任があるようにも思います。教会は長い間、ここに来れば答えが見つかりますよと自己宣伝をしてきました。あたかも自分たちが発明した世界一便利な商品を売るかのように。確かにそれで問題が解決する人もいるでしょう。しかしにわかには解けない問いを抱えた人に対して教会は、一緒になって頭をひねって悩みや痛みを共にするよりも、ただ決まった正解を押しつけるだけではなかったでしょうか。それでも解けない問いは、あたかも問いなど無いかのように、問いを抱えた人ごと切り捨ててきはしなかったでしょうか。
★実際にはそもそも答えは、わたしたち自身の力で発明したものではないし、また、イエス様は正解を言葉で答えることよりも、人の体、いのちの痛むところに触れ、共にあって共に生きることをこそ大切なこととしてわたしたちに教えられたはずだと思うのですが。
by oji-church | 2011-01-27 08:51 | 牧師からのメッセ-ジ
「無功徳・廓然無聖・不識」

★ダルマさんといえば日本ではすっかりお人形になっていますが、もとは中国に禅宗の仏教を伝えたお坊さんです。ダルマさんが中国にやって来たとき、時の中国の皇帝がダルマさんに尋ねました。「自分は寺をおこし、僧を育てた。どんな功徳があるか?」。するとダルマさんは答えます。「功徳などない」。次に皇帝は「聖なる真理のいちばん大切な意味は何か?」。ダルマさんの答えは「聖なる真理など存在しない」。最後に皇帝はいらだって言います。「お前は何者か?」。ダルマさんは一言「知らない」と答えました。
★人を喰ったようなお話ですが、このお話は宗教にとって大切なことをわたしたちに伝えています。宗教信仰は時に人をエゴイズム(自己中心)から解放してくれます。しかしまた宗教は時に、人をエゴイズムから解放するその自らの力を絶対化して、自らへの批判を封じてしまいます。自分のところの信仰こそが「もっとも聖なるもの」であり、他よりもすぐれてエゴイズムから人を解放するのだと。
★しかしそれ自体がもうすでに、その宗教のエゴイズムになってしまっています。ひとたび宗教を信仰すると、こうしたその宗教自体のエゴイズムには、なかなか気付くことができなくなってしまうのです。ダルマさんは「功徳などない」「聖なるものなど存在しない」「自分が何者か知らない」と答えることによって、「わたし」にどれだけ功徳があるか、「わたし」は聖なる真理の一番大切な意味をどれだけ知っているか、「わたし」はどれだけ悟った一人前の信仰者か。そういう信仰につきまとう「わたし」を放り出して(解放して)いるのです。
★イエス様が「明日のことを思い悩むな」と語ったこととつながるような気がします。
by oji-church | 2011-01-19 10:01 | 牧師からのメッセ-ジ
言葉の先にあるもの

★21世紀が始まって最初の十年が過ぎました。20世紀は戦争の世紀でした。その反省から21世紀は平和と人権の世紀としたいと願われたはずだったと思います。しかしながら、この十年でいったいどれだけの人たちの命が戦争で奪われたかはかり知れません。戦争は人間同士が敵味方に分かれて相争い、殺し合うことです。しかし「敵」と呼ばれる人々も人間であり、「味方」と呼ばれる人々も同じく人間なのです。ところがある時、一方には「敵」という、もう一方には「味方」という「言葉」が付けられて、その時からわたしたちは、双方が同じ人間であるという当たり前の事実を、「言葉」の前に、いとも簡単に忘れ去ってしまいます。
★言葉は、わたしたちが互いに出会い、触れ合い、理解しあうためには不可欠の、またとても役に立つ道具ですが、しかし時に言葉は、ありのままの、当たり前の真実をゆがめ、見えなくさせてしまう、よこしまな働きをなすこともあります。
★牧師の仕事の多くは言葉によってなされます。そんな中でしばしば、自分は、ただ言葉だけを並べて仕事を右から左へと受け流しているだけじゃないかという疑念が沸き起こってきます。それらしい言葉をいくつかつ並べることで、教会はいくらでも自らを聖なる場所としてそれらしく、清く麗しく、荘厳な雰囲気に装うことができます。けれども、本当は教会に集まっているのは、傷つけば温かい血の吹き出る「生身の人間」です。言葉だけで教会を、それらしく装うことはできても、それは、やがてどこかで、「生身の人間」のいのちの本当の姿と入れ合わなくなってしまうでしょう。それでも言葉の方にすがるなら、やがてわたしたちは人間の「いのち」の方を「言葉」に合うように歪め、押しつぶし始めることになります。
★教会という場所は本来、言葉の先にある、いのちの本当の姿に触れ、それを守り、はぐくむ働きへと押し出されていく場所でなければならないのだと思います。
by oji-church | 2011-01-15 14:47 | 牧師からのメッセ-ジ
「もう一人分のごちそう」

★最近ある本で、こんな話を知りました。メキシコのインディオの人たちは「死者の日」という、死者たちと一緒に過ごすお祭りのために何日も前からごちそうを作って準備します。一緒に過ごす死者の範囲は、血縁関係の近さとは必ずしも同じではなく、なつかしいと思う死者たちだということです。その時、ごちそうを、覚える死者たちの数よりも一人分余分に作っておくのだそうです。どの生者にも呼び出されない孤独な死者たちもいるので、そういう死者たちがうろうろしていると、どこかの家族に呼び出されている死者の一人が、「おれと一緒に来いよ」といって誘うのです。そういうプラスワンの死者が来たときに、ごちそうの数に余裕がないとさびしい思いをさせるので、必ず余分に作っておくのです(見田宗介『社会学入門』)。
★もしかしたら神の国の食卓とは、こんな余分の一人分の用意された食卓なのかもしれないと思うのです。いつかわたしたち日本の社会は、こんな余分の一人分を残しておく余裕を失ってしまいました。
★新しい年、このような食卓をわたしたちは形づくることができるでしょうか。この神の国の食卓の「余裕」は「経済的余裕」とは別のところにあるようです。
by oji-church | 2011-01-06 08:57 | 牧師からのメッセ-ジ
「当たり前の真実を見えなくさせるのは」

★日本漢字検定協会が今年を表す漢字として「暑」を挙げました。わたしは沖縄に米軍基地を押しつけてきた日本の(つまりは、わたしたちの)問題が浮き彫りにされ、厳しい問いを突きつけられたことがなお胸に突き刺さります。「暑」ではなく沖縄の人々が掲げた「怒」の文字こそが今年にふさわしいように思います。
★以下の沖縄の新聞の言葉が胸に刻まれます。「仙谷氏は13日の会見で、米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設について「県民に甘受してもらいたい」と述べた。/しかも『情と理を尽くして説得する』と述べている。駄々っ子をあやすかのような口ぶりだ。駄々っ子は沖縄側と政府と、いったいどちらなのか。……仲井真弘多知事が『他人に言われる筋合いはない』と不快感を示したのも当然だ。/すると仙谷氏は『沖縄が総反発するような受け止めをしているとすれば、撤回もやぶさかでない』と述べた。まるで県民の受け止め方が誤りだと言わんばかりだ。なぜ県民が反発したのか、この人には永久に分からないだろう。/沖縄は既に十分に『甘受』を強いられてきた。今度は本土側が『甘受』する番だ」(『琉球新報』12月15日社説「『甘受』発言 駄々っ子はどちらなのか」)。
★その後も首相が沖縄に入り「辺野古がベター」と発言し、先週は前原外相が沖縄で「辺野古への移設を拒否するなら、普天間の継続使用となる」との「脅し」ともとれるような発言をしました。沖縄以外の地域には「甘受」を求めず、沖縄以外の地域が「甘受」できないことを沖縄には「甘受」せよというのでは、やはりわたしたちは沖縄を差別していると言うよりほかありません。この差別をぬぐう時、「誰も『甘受』できないものは、無くすより他はない」という当たり前の真実が明らかになります。沖縄の「怒」を、「暑」などで覆い隠すべきではありません。
by oji-church | 2011-01-06 08:55 | 牧師からのメッセ-ジ