日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「クリスマスの喜び」

★クリスマス。わたしたちは喜びを表します。しかしクリスマスの喜びって一体何なのでしょうか。喜びには二種類あるように思います。一つは、苦しみや悲しみを見つめない喜び。もう一つは、苦しみや悲しみを見つめる喜び。苦しみや悲しみを見つめない喜びは、きっと一時の気晴らしに終わることでしょう。その喜びが去れば、また次の喜びが必要になり、それが昂じれば、わたしたちはいわば「喜び依存症」となってゆきます。
★究極的に人間同士が結びつけられるのは、苦しみや悲しみを共にすること・分かち合うことによってではないかと思います。苦しみや悲しみを共にし、分かち合うことを通じてわたしたちは、孤独ではないこと、苦しみや悲しみを負っていても、自分は自分のままであっていいと知るようになります。その喜びは、苦しみがあっても、悲しみが残り続けていても、いわば目に見えない形でわたしたちの内側に息づくようになります。それは「希望」と言い換えられかもしれません。希望があることによって人は、苦しみ・悲しみが残り続けていても、生きることができるようになります。
★聖書にはこんな言葉があります。「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」。クリスマスとは、様々な見失われた場所で人々の苦しみや悲しみが疼いているこの世の闇に改めて思いを向ける時、そして生まれてくるみどり子イエス様の助力を得て、この闇に向き合い立ち向かって、隣り合うお互いの苦しみや悲しみを少しでも分かち合い、受けとめあって希望を見いだしていく思いを新たにする時、それがクリスマスの時ではないかと思うようになりました。
by oji-church | 2010-12-25 08:59 | 牧師からのメッセ-ジ
「上を見あげたい」

〈イエスは、「何をしてほしいのかと言われた盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った〉(マルコによる福音書10章51節)

★イエス様は神様と人、人と人との出会い、関わり合い、結び合いを何よりも大切にする人だったと思います。この場面でも、イエス様は叫ぶバルティマイの前に立ち止まって、彼を呼び出します。やってきたバルティマイに向かって「何をしてほしいのか」と尋ねるのです。普通であれば、道ばたの乞食がうるさくてかなわない。そうしたらわずかな施しを投げ与えて、そこを通り過ぎるでしょう。「何をしてほしいのか」などと聞くのは時間の無駄だと。しかしこのイエス様の問いかけをは、原文通りには、「わたしが何をするようにとあなたは望むのか」となります。ちゃんと「わたし」と「あなた」という人間同士の関わり合い、結び合いが語られているのです。
★イエス様のこの問いかけに答えてバルティマイは言います。「先生、見えるようになりたいのです」。実はここで「見えるようになりたい」と訳されている言葉は、厳密には「再び見えるようになりたい」という言葉なのです。バルティマイはかつては目が見えていたのが途中で失明したということが分かります。しかし同じ言葉がもう一つ意味を持っているのです。それは「上を見上げたい」という意味です。意味深い言葉です。一つには神様を見上げて、神様との関わりの中で生きていきたいという意味かもしれません。しょうがいを負った人は神の裁き、神の呪いを受けていると考えられていたのですから。もう一つには、それまで道ばたに座って頭を下げて施しを乞うていたのだけれども、こうべを上げて人間らしく生きていきたいとの願いにも聞こえます。この「見えるようになりたい」という一言にはバルティマイの人生すべての重みと深さが込められているのです。
by oji-church | 2010-12-16 09:24 | 牧師からのメッセ-ジ
「動く神(Ⅱ)」

★神様は、人間やこの世の事柄に対して、時に苛立ち、時に怒りをあらわにする。それを、そんな人間くさい神様なんて信じられるわけがないと言ってしまえばそれきりなのです。しかしそのように人間くさく苛立ったり、怒りをあらわにする神様の心の最も奥底の土台となっているのは、愛だ。愛するという思いだ、愛するという働きだ、神様は自ら造られたもの、この世に存在するものすべてを愛そうとして、そのために動き、働くのだということであればどうでしょうか。
★わたしたちは恐らく、旧約聖書の中で神様がするように苛立ち、神様がするように怒りをぶちまけることはできるでしょう。しかし、神様がするように、この世に存在するものすべてを愛することはできるだろうか。そして恐らく、わたしたちが与えられているこの命を、本当に悔いなく生ききることができるとすれば、それはただ「愛する」ということのみによって可能なのだと思います。
★でもわたしたちはなかなか、この世界に存在するすべてを愛しきることができません。そういう意味で、聖書に語られた神様の「動く」姿は、わたしたちにとって欠かすことの出来ない大切な事柄を告げているのだと思うのです。
by oji-church | 2010-12-08 15:11 | 牧師からのメッセ-ジ
「歴史を前に進めるのは誰か」

★先週、朝鮮の軍隊が韓国の島を砲撃し、人が命を奪われるという痛ましい事件がありました。韓国の軍事演習にこと寄せての朝鮮の挑発行為だと言われます。そしてこんどはそれに対して、アメリカと韓国が共同軍事演習を近海で行うとしています。
★日本では朝鮮学校に対する学費無償化の手続きを停止すると政府が言っています。八つ当たり的行為としか考えられません。テレビでは軍事評論家と称する人々が、誰も分からない朝鮮国内の事情を、想像力の限りを尽くしてまことしやかに説明し、「これを何もしないで放置すれば、さらに第2・第3の攻撃が北朝鮮からなされる」と息巻いています。では「何もしない」のではなく、一体何をしろと言うのでしょうか。テレビの中では誰も口にしませんが、報復せよ」との声が聞こえてきそうです。
★こうして「目には目を、歯には歯を」、軍事力には軍事力をと積み上げていくことによって、取り返しのつかない方向へとわたしたちが進んでいっていることに、誰も気がつかないのでしょうか。
★軍事力に対抗して軍事力をその上に重ねることによっては決して平和は築かれません。ではわたしたちの手に、どんな力があるだろうか。わたしたちは無力のようではありますが、少なくともテレビの中で、肩書きをつけてまことしやかなことを言っている人たちに、心を預けてしまうことだけはしないようにしたいと思います。この人たちは、あたかも自分たちが世界を動かしているような顔をして、とうとうと言葉を尽くしているけれども、世界を動かしているのはこの人たちではありません。
★究極のところで歴史を前に進めてきたのは、時代に翻弄され、傷を受け、悩みつつ悪戦苦闘する名もない人たちでありました。どうか、そこに留まりたいと願うものですし、また、かの朝鮮の国にもそのような人たちがいることに思いを向ける者でありたいと願います。
by oji-church | 2010-12-02 08:47 | 牧師からのメッセ-ジ