日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「同行二人」

〈なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。 〉コリントの信徒への手紙Ⅱ第2章2~3節)

★(承前)3節は元のギリシア語原文では、こちらも「そちらに行ったとき、わたしも」と書かれているのです。「わたしも」とパウロが語るその傍らに、イエス・キリスト以外には人らしい姿は見当たりません。するとイエスもまた「優れた言葉や知恵を持って」いず、「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安」であったことになります。
★新共同訳の聖書を翻訳した人は、まさかイエス様が「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安」だったなど、そんなことがあってはならないと思って、3節の方は「わたしも」ではなく「わたしは」と訳したのでしょうか。でもそこには、人が弱さを抱えるのはその人の落ち度や未熟さのせいだとする考えが横たわっています。しかしパウロが語るのは、たとえ人がどんなに落ち度を抱え、どんなに未熟であれ、そんなことは全部乗り越えて、十字架につけられたキリストが、共に歩いていてくれるのだということです。
★お遍路さんの編み笠には「同行二人」と書かれています。一人ぼっちの遍路の旅にも必ず弘法大師が一緒に歩いてくれていることを示すものです。旅に病み、また伝道の失敗を重ねて失意の内に独り旅するパウロではあるけれども、その傍らにはそのパウロと同じ弱さの立場に立ったイエス様が歩いていてくれるのだということなのです。
by oji-church | 2010-10-30 11:25 | 牧師からのメッセ-ジ
「『わたしも』と呼ぶ傍らに」

〈兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。 〉コリントの信徒への手紙Ⅱ第2章1~3節)

★アテネでの伝道が散々な結果に終わったパウロは、憔悴しきって「もう自分には優れた言葉や知恵はない」と落ち込んでコリントの町にたどり着いたということでしょうか。精神的にも不安定な状態に落ち込んでいたのかもしれません。
★しかしパウロはそんな自分の弱さを隠しません。わたしたちは出来ることなら、自分の弱いところは人に見られたくないと思うものです。どうしてでしょうか。わたしには自分の弱さが何か自分の落ち度や未熟さのせいとしか思えなくなってしまうのです。人に打ち明ければ、きっとそれらを指摘されるに違いない。そんな「怖れ」があります。その裏には、弱さはその人間の落ち度や未熟さの表れであると見る考え方が働いているのでしょう。
★3節は元のギリシア語原文では、こちらも「そちらに行ったとき、わたしも」と書かれているのです。「わたしも」とパウロが語るその傍らには誰が居たのでしょうか。2節にはこうあります。「なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」。パウロが「わたしも」と語るその辺りにはこのイエス・キリスト以外には人らしい姿は見当たりません。とするとイエスもまた「優れた言葉や知恵を持って」いず、「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安」であったことになります。(つづく)
by oji-church | 2010-10-20 20:40 | 牧師からのメッセ-ジ
「『悪』と『愚かさ』を救うもの」

〈十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です〉。(コリントの信徒への手紙Ⅰ第1章18節)

★『悪人』というタイトルの映画が話題になっています。一方ここ数年来宗教学者の山折哲雄さんが、浄土真宗の開祖・親鸞の思想に触れながら「悪」について著作されています。親鸞といえば『歎異抄』の「善人なほもて往生す、いはんや悪人をや」という「悪人正機説」が有名ですが、弟子の著した『歎異抄』とは異なり、親鸞自身の著作である『教行信証』では、悪人が無条件で往生できるとは書かれていないと言うのです。悪人が往生するためには「懺悔」と「前知識」(よき導き手との出会い)が必要と説いているとのことです。
★山折さんは、15年前のオウム真理教の事件が親鸞の語る「悪人」について考えるきっかけとなったと言います。オウム事件が起こった時、もし現代の極重悪人を一人選ぶとすれば、それは麻原彰晃であろうと思ったと言います。そして果たして彼は救われるのだろうかという問いがわき起こってきたと言うのです。しかし社会はこの事件を物知り顔に分析したり解釈したりはするけれども、人の悪というものを直視しようとはしなかったとも。麻原氏を「愚か者のなれの果て」と見なして、自分とは無関係のこととしたわけです。
★厄介な悩み事は器用に避けて通るというのがこの世の価値観です。十字架に掛けられたイエス様の姿は、この世の目から見れば、厄介事を抱え込んだ「愚か者のなれの果て」に見えるでしょう。しかしその姿こそが「神の力」なのだとパウロは語るのです。愚かにも抱え込んだ厄介事を、愚かにも分かち合い、共に省み続けていくことからこそ、人の生命を真に支える力が見いだされてゆく、ということでしょうか。
by oji-church | 2010-10-13 15:10 | 牧師からのメッセ-ジ
「バカボンと十字架のイエス」

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。……神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(コリントの信徒への手紙Ⅰ第1章18節・25節)。

★「天才バカボン」の作者で漫画家の赤塚不二夫さんが、生前こんなことをおっしゃっているのをテレビで見て、深く心惹かれました。「自分が最低だと思ってればいいの。みんなより、一番劣ると思っていればいいんだよ。そしたらね、みんなの言っていることがね、ちゃんと頭に入ってくる。自分は偉いと思っているとね、人はね何も言ってくれない。てめえが、一番バカになればいいの」。
★分かっているようでいて人はなかなか「自分がいちばんバカだ」とは思えないものです。それでいてわたしたちはしばしば愚かな失敗や過ちを繰り返し、悩みや苦しみを背負い込んでいます。しかし多くの場合、他人の失敗や過ち、それゆえの苦悩は「他人事」として避けて通ります。「自分がいちばんバカ」という思想は、他人の愚かな失敗や過ち、それゆえの苦悩を他人事としない、避けて通ることをしない、我がこととしてその苦悩を引き受ける勇気ある姿勢なのだと思えてきました。
★十字架に掛けられたイエスの姿は、当時の人々にとって、あまりにも愚かしい姿に映ったことでしょう。しかしパウロは、自分たちはその愚かなキリストを宣べ伝えるのだと言うのです。神は人の愚かな失敗や過ち、それゆえの苦悩を通じて、人と人とを序列や差別から解放された本来あるべき「つながり」の内に結び合わせると言うのでしょうか。赤塚さんはそれを見事に一言で言い表しています。「これでいいのだ」と。やっぱりバカボンは天才です。
by oji-church | 2010-10-07 08:54 | 牧師からのメッセ-ジ