日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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「ゆっくりとした歩み」

「このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた」(マルコによる福音書15章20~21節)。

★今年で41歳になります。おなかの出っ張りがなかなか凹まなくなると同時に、以前に比べて、歯切れ良く人前で喋ったり、文章を書いたり出来なくなりました。「四十にして迷わず」とは裏腹に四十を過ぎてからの方が迷うことが多くなりました。
★体の足とは別の「心の足」があると思うようになりました。何かを抱え込んでくよくよと考え始めると、体はどんなに健康でも、心の足はゆっくりとしか歩けなくなってしまう。また年を重ねるうちに、心の足の速さは、確実にゆっくりになっていきます。それが頑固になったとか、保守化したとか、くよくよするようになったとか、つまりは「老い」として疎んじられてきたのではないでしょうか。
★しかし「遅い」ことは「悪い」ことなのか。牧師として人と出会うなかでそういう問いかけを受けてきました。イエス様は十字架への道行きを倒れながらゆっくり歩き通され、やがて十字架に釘付けにされてまったく動かなくなりました。
★この動けなくなったイエス様を、神様はなお「わたしの子だ。わたしの愛する子だ。わたしの心に適う愛する子だ」と呼びかけ続けられたのだ。わたしたちはその声を聞いた。そう証しすることから教会は始まりました。動けないイエス様を神様は愛し続けられる。十字架の死を乗り越えて。だからなお、わたしたちの歩みは、わたしたちの足は、体の足も、心の足も、どんなにゆっくりであっても構わない。わたしたちの死を越えてなお、神様はゆっくりとした歩みに愛を注ぎ続け、イエス様は十字架を背負いつつ、死を越えて人のゆっくりとした歩みに寄り添い続けたもう、のでしょう。
by oji-church | 2010-09-29 11:44 | 牧師からのメッセ-ジ

オクラの花

教会の植え込みにいろいろな野菜を植えています。
ミニトマト・大葉・ゴーヤー・オクラ等。
しかし今年は暑さのせいで、大葉とオクラ以外はなかなかうまくいかないようです。
オクラは元気よくぐんぐん大きくなり、週に4~5本の収穫になります。

e0088612_17184064.jpgオクラの花は白い可憐な花なのです。でも、午前中に花を咲かせると午後にはもう花を閉じ、翌日には小さなオクラの赤ちゃんがそこにつきます。
by oji-church | 2010-09-22 17:18 | みちばたの教会
 「福音の余波を残す」

「豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を来、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった」(マルコ5:14~15)。

★彼が「服を着、正気になって坐っていた」と書かれています。「正気」とは正しい心という意味です。彼の人間性の中に戦争を、そして人を支配する人間と支配される人間とに分ける考えを強く拒む「正しい心」をイエス様は見いだしたのです。
★ところが人々は彼の「正しい心」を見て「恐ろしくなった」と言われます。そして「イエスにその地方から出ていってもらいたいと言い出した」と言われます。軍隊の力を恐れ、それにひれ伏しより頼む人間の心情が語られているわけです。一方、退去させられるイエスと一緒に行きたいと願うあの男性の願いを退けて、イエスは彼に自分の家に帰るように、そして「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と告げます。彼をこの地に残すことによってイエス様は、戦争と植民地主義の傷と余波とが渦巻く世のただ中に福音の余波を残したと言えるかもしれません。
★この福音書を著したマルコは自分たちの教会をこのゲラサ人に残された福音の余波を受け継ぎ、戦争と植民地主義の余波に対峙する者と考えていたのではないかと思います。思われていた女性や子どもたちの命そのものを愛そうとされたのです。本当の平和とはそのように本当の命そのものが愛され、大切にされることなのでしょう。
by oji-church | 2010-09-16 16:42 | 牧師からのメッセ-ジ
「『人間』を引き裂く戦争・植民地主義(2)」

「そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。汚れた霊どもはイエスに、『豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ』と願った。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った、すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ 」(マルコ5:10~13)。

★支配する側と支配される側とに人を分ける戦争と植民地主義の力によって、彼はその人間性を引き裂かれてしまっていました。遠くから駆け寄ってイエスにひれ伏す一方で、「かまわないでくれ。苦しめないでくれ」と懇願する。そんな矛盾する振る舞いをします。一方「自分たちをこの地方から追い出さないように」という願いには、この地方に永続的に駐留を続けようとするローマの軍隊の意向と、その下で抑圧されているこの人の人間性が、自分が生まれ育ったこの故郷の地方で、人間らしく生き続けていきたいという叫びとが、二重写しに響いているように思われます。
★イエス様の働きは、押しつぶされ引き裂かれた彼の人間としての尊厳を取り戻すことでした。イエス様は彼を縛り上げ墓場へと追いやることなく、彼の名を尋ね、彼の叫びに耳を傾け、彼に服を着せ(彼が「服を着、正気になって坐っていた」と書かれています)、人間として彼と出会い、人間として彼を迎え入れたのです。(つづく)
by oji-church | 2010-09-10 14:27 | 牧師からのメッセ-ジ
「『人間』を引き裂く戦争・植民地主義」

「彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。 」(マルコ5:5~10)。

★二十世紀の戦争は、大国の植民地主義のぶつかり合いの中で引き起こされてきました。植民地主義は、力を持った国が他国を侵略しその資源を略奪することをよしとする考え方です。この植民地主義の中で人間は支配する「優れた」人間と支配される「劣った」人間とに分けられました。日本人の多くは自らを支配する「優れた」人間と思いなし、やがて支配される側の人々の命や生活に注ぐまなざしを失っていきました。その戦争から65年を経たいま、そうした支配する「優れた」人間、支配される「劣った」人間という分け方から、果たしてわたしたちは解放されているでしょうか。
★「レギオン」(ローマの軍団の呼び名)を名乗るこの男性は、明らかに過去の戦争・植民地主義の犠牲者です。しかし人々は彼を墓場に遠ざけて鎖や足枷で縛り付け、見えない・聞こえない・存在しないものにしようとしました。支配される苦悩を自分の内側に押し殺した結果、彼はその刃を自分自身に向け、石で自分自身を打ちたたくようになったのでしょう。彼は生身の人間としての自分を押し殺して、支配する側の力に組み込まれた道具のように自分を見なすようになりました。それで名を問われると「レギオン。大勢だから」と支配する側の力そのものの名を名乗ったのです。(つづく)
by oji-church | 2010-09-10 14:26 | 牧師からのメッセ-ジ