日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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「人生の中の十字架」

《わたしたちはすべてにおいて自らを神に仕えるものとして表しています。…栄光と不名誉を通して、好評と悪評を通して》(Ⅱコリント6章4~8節)

★十字架にかけられたイエス様の姿は、良くない人の評価、良くない場面、良くない自分自身の姿、そうした良くないものをすべて示し表した姿です。その良くない姿をさらし尽くしたイエス様が共におられることによって、わたしたちは良いところも良くないところもある自分自身の命を、かけがえのないものとして見いだすことができるのです。
★わたしたちはともするとイエス様の十字架は、自分の人生とは別のところにあるものだと思ってしまいますが、イエス様の十字架は、良いことも良くないこともある、このわたしたち一人ひとりの人生の中にあるのだと言えるのです。
by oji-church | 2010-07-29 13:57 | 牧師からのメッセ-ジ
「人の中から、人のあいだに」

《外から人の体に入るものは、人を汚すことができない》(マルコ7章18節)

★わたしたちの外側にあるこの世界の生きとし生けるものすべて、人を汚すことのできるものなど何もないとイエス様は宣言されたのです。そうでしょう。聖書によればこの世界のものすべてを創られた後、神様はそれらすべてのものをごらんになって「見よ、それは極めて良かった」と喜びの声を挙げられたのですから。
★むしろ本当の意味で人の「汚れ」とは何かをイエス様は問い返されるのです。人の本当の「汚れ」とは、「よそ者」のレッテルを貼り、人を見下し排除し差別する。そのような人の悪意こそが人間を悪に染まった醜いものとするものではないかと問い返されたのです。「人の中から出てくるものが、人を汚すのだ」と。
★愛媛県におられ、同和教育のお母ちゃんと慕われた江口いとさんの詩に、「人の値打ち」という詩があります。

いつか、モンペをはいてバスに乗ったら
隣座席の人が「おばはん」と呼んだ
よそいきの着物に羽織を着て汽車に乗ったら
人は私を「奥さん」と呼んだ
どうやら人の値打ちは
着ている着物で決まるらしい
……

江口さんは、着ているもの、肩書き、学歴、生まれた場所といったもので「人の値打ち」を決める、そうした「人の中から出てくる」「あやまち」を鋭く指摘しています。
★では、人の本当の値打ちはどこから生まれてくるのでしょう。それもやはり人の中から生まれてくるのだと思うのです。生まれついて汚れた者など一人もといない。イエス様に従ってそのように思いを定め、その思いに沿って生き、人と出会い、触れ合い、結び合っていく時、そういうわたしたちの間から、誰も汚すことの出来ない本当の人間の値打ちが生まれてくるものだと思うのです。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」とイエス様が言われたように。
by oji-church | 2010-07-22 12:06 | 牧師からのメッセ-ジ
「お金を土に埋める働き」

《持っていない者は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ》(マタイ25章29~30節)

★今年の北支区総会の「各教会の祈りの課題・近況」には、王子教会として「生活に困窮して教会を訪れる人が増えています。一人の生活も犠牲にしない社会を祈り求めます。……」と書きました。
★先日も、福祉事務所で別の町へ行くようにと僅かな額の電車の切符を渡されて追い払われたという老齢の母と娘という女性二人が教会を訪ねてこられました。「厄介払い」をされたのです。人間が「持っているもの」によって測られて、「外の闇」へとうち捨てられるわたしたちの社会です。
★僕(しもべ)は、託されたお金を「高利貸し」には用いず土に埋めたのです。土や食物や生命を増やし育てますが、お金は増えません。お金が本来の生命の流れからはずれて、いかに「いびつ」に増やされるものかを、このたとえ話の僕は雄弁に語っています。彼は「怠け者」ではありません。
by oji-church | 2010-07-14 09:08 | 牧師からのメッセ-ジ
「悔い改めとは共感すること」
《十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した》(マルコ6章12節)


★聖書のギリシア語では「悔い改め」は「メタノイア」です。「メタ」とは「変える、移す」の意、「ノイア」は「ヌース」(=心・判断の基準)という言葉に由来します。つまり「悔い改める」とは、「物事の判断の基準・物差しを移す、視点を移す」ことです。
★さらに「メタノイア」は旧約のヘブライ語「ニハーム」にさかのぼります。「ニハーム」とは「あることに痛みを感じる」ということです。つまり「悔い改め」とは、「他者の痛む姿に心動かされ、共感して自分の心も痛んで、それまでとは違う心の向き、視点を与えられる」という意味になります。
★福音書では弟子たちを遣わす目的して「悔い改めを宣教する」ことが掲げられていますが、それは他者に「悔い改め」を要求することではなく、自分自身が人と出会う中でその痛みに接し、新しい視点を与えられる、そのような経験を積み重ねていくことなのです。
by oji-church | 2010-07-08 16:56 | 牧師からのメッセ-ジ
「『慰霊』はなされたか」

《慰めよ、わが民を慰めよとあなたたちの神は言われる》(イザヤ書40章1節)

★6月23日は沖縄慰霊の日でした。沖縄の人々は8月15日とは別に沖縄独自の「慰霊の日」を掲げていることの重みを感じます。
★昨年、沖縄返還に際して核密約(有事の際には、沖縄に核兵器を持ち込むことを認める密約)があったことを、ようやく政府が認めました。これに関わった政治家は多く口をつぐんだきりです。しかし密約には裏の裏があり、当時米国は、沖縄返還後も基地を自由に使用することを日本政府に認めさせるため、敢えて密約を行い、持ち込んだ核兵器の撤去を交渉カードに用いる作戦だったのです。
★核密約は過去の事柄ではなく、沖縄の米軍基地が撤去されないその土台となって現在も生きているのです。沖縄を覆う米軍基地は1945年6月23日の沖縄での日本軍の組織的戦闘の終結後、米軍によって「銃剣とブルドーザー」によって沖縄の人々から暴力的に取り上げられたものです。日本政府は沖縄返還と引き替えにこの暴力を、現在に至るまで黙認してきたのです。返還の功労者として佐藤栄作元首相はノーベル平和賞を受賞しましたが、10万人以上に上る、沖縄戦での沖縄出身の犠牲者の霊は、65年後の今、果たして慰められているでしょうか。
★佐藤元首相の「密使」として米国との交渉に当たった政治学者若泉敬氏は、1992年に交渉の裏にあった米国の意図を知り、秘密交渉の経緯を暴露する本を書き、しかし政府やメディアから黙殺され、繰り返し沖縄に鎮魂の旅をした果てに「結果責任」を取ると語って自死されました。「霊を慰める」ということの中から、過去の戦争の犠牲者に対して、現在のわたしたちが「責任」を持つことを考えたいと思います。
by oji-church | 2010-07-01 09:23 | 牧師からのメッセ-ジ