日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「キリストの痛む体」

行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう》(使徒言行録9章15~16節)。
《多くの中で、弱く見える体の部分が存在することが、かえって必要なのです。そして、価値がないように見える部分に、わたしたちはより多くの価値を置くし、わたしたちの中の不格好な部分は、実はより良い姿をしているのです》(コリントの信徒への手紙一12章23節・私訳)

★キリスト教徒を迫害する者であったパウロは、一転、後半生をキリスト教の伝道に費やしますが、その半生は成功よりもむしろ挫折と失敗が基調の半生でした。
★しかしそんな紆余曲折を経たパウロの歩みだったからこそ、彼はキリスト教の大切な本質を見いだすことができたのではないかと思うのです。それは、共に苦しむことの意味です。
★しばしばパウロは、町から、教会から、追放される憂き目に遭いました。、無様に伝道に失敗して立ちつくす敗れを負った時、自らの傍に十字架の上の敗れ果てたイエスの姿を見いだしたのでしょう。そういう経験の中から語り起こされた、「教会はキリストの体」という言葉です。それは、価値のないもののように十字架に釘付けにされ、不格好にうち捨てられる痛みを背負った体に他なりません。
★「教会はキリストの体」と言う時、その体とは、傷つき痛む体に他なりません。でもその、傷つき痛む部分が是非とも必要なのだ、その傷つき痛む部分の痛みを、他の部分が共に感じ受け、共に分かち合う時にこそ初めて、体は命を持って生きる一つの体となるのですから。
by oji-church | 2010-05-28 12:20 | 牧師からのメッセ-ジ
「命にとっての平和とは」

《あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く》(創世記9章12~13節)。
★神様は、人間であるノアとその家族だけではなく、彼らと「共にいるすべての生き物」と約束を結んでいます。ここでは動物は人間と並んで同等に神様から約束を与えられる、人間にとってはいわば対等なパートナーと見られています。
★いま沖縄の普天間基地の移設の事柄が取りざたされていますが、つい先日辺野古の海を埋め立てることは自然に対する冒涜であると言っていた首相が、今度は「抑止力のため」という言葉でもってそこに米軍基地を移設させようとしてます。
★ジュゴンの住む海です。なんだ、人間じゃないじゃないかと思われるかも知れません。でも今、わたしたちが命について考えようとする時、人間の命だけを考えていればそれでいいという時代ではなくなりました。人間の命はどこまでもこの地球の自然環境の命と繋がっているのだということが分かってきました。
★「抑止力のため」という言葉が端的に示しているように、軍事基地というのは「平和のため」「国土の防衛のため」という大義名分によって、他の何ごとよりも優先されます。しかしそこに基地が作られるということ自体が、すでに大きく命を破壊するものであることを、辺野古の海はわたしたちに警告していると言えるでしょう。わたしたちは、アメリカ政府から「抑止力」について教えられるよりも前にもっと自然から、動物から、教えられなければなりません。
by oji-church | 2010-05-20 10:50 | 牧師からのメッセ-ジ
「生命の流れ、愛の流れ」

《わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。…父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。…わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい》
(ヨハネによる福音書15章5・9・12節)。

★分子生物学者の福岡伸一さんは、いのちとは「流れ」であると言います。わたしたちの食べた食物は消化され分子となり、体となる一、古い体は体外に排出される。こうして環境がわたしたちの体を通り抜けていきます。いやわたしたちの体そのものが、その流れが一時淀んでいる場所に過ぎないわけです。わたしたち体を含めた環境にある分子はすべて、生命の中を通り抜け、また環境へと戻っていく、大きな循環する流れの中にあります。
★ヨハネ福音書がここで「愛」と語るのは、このいのちの「流れ」のことかもしれないと思うのです。神様がイエス様を愛し、それを受けて今度はイエス様が人々を愛する。そういう愛の流れです。
★神様からイエス様へ、イエス様から人々へという愛の流れを、ぶどうの木の養分が根から、幹へ、幹から枝へ、枝から実へと流れゆくように、自分のところで止めてしまうのではなく、互いに愛し合うことへ、隣人へと流していくべきだ、と命じられ、求められているのです。
★いま、わたしたちの生きる社会では、人間同士が際限なく切り離され、その一方で「テロとの戦い」「抑止力」などといった大仰な言葉に脅されて、人間が国家に殺生与奪を握られた、取り替えのきく部品として扱われようとしています。その中で、こうした本当の意味での、人間だけでない生命のつながりを意識することは意味あることではないかと思うのです。
by oji-church | 2010-05-15 10:51 | 牧師からのメッセ-ジ
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一昨年アーチにかけたバラが今年ようやくたくさんつぼみをつけました。
いまを盛りに花を咲かせています。


e0088612_9351785.jpgピンクとオレンジの二種類があります
by oji-church | 2010-05-08 09:37 | みちばたの教会
「普天間基地を東京に」

★沖縄の普天間米軍海兵隊基地の移設問題が大きく取りざたされています。5月中に結論を出さなければ、政権の命運にも関わってくるということで。しかし政権の「命運」以前に、基地の傍らで命の危険にさらされている沖縄の人々の「命運」はどこに行ってしまったのでしょうか。移設先の案が迷走する中で、辺野古が再浮上し、また徳之島の名があがり、徳之島でも大きな反対集会が開かれ、町長は官房長官の来訪を拒否しました。
★沖縄にせよ、徳之島にせよ、基地の移設を進めようとする人は「日米安保の堅持」が日本を守るために必須の事柄のように語ります。しかし沖縄も徳之島も、東京から遠く離れた日本の「端っこ」です。日本を守るためにそれほど必要なものなら、もっと「日本の中枢」たる東京の近くに、いや都内にあった方が安心なのではないでしょうか。
★表面的には沖縄県内の移設に反対している人々の声も、それでは、沖縄はやめて、自分の住む場所の傍らに来るとなったらどうでしょうか。やっぱり沖縄で仕方ないとはならないでしょうか。「遠くのできごとに美しく怒る」のはたやすいことです。
★敢えて「普天間基地を東京都北区に」と言ってみるのです。わたしの家の隣り、あなたの家の隣りに、と言ってみるのです。それが「暴論」だと言うのなら、いま現に普天間にあること、辺野古や徳之島に移すことは「暴論」ではないのかどうか、考えてみるべきでしょう。
★普天間にあることも、辺野古にあることも、徳之島にあることも、自分の家の隣りにあるものとして本気で反対しない限り、東京に暮らすわたしたちが、これら日本の「端っこ」に暮らす人々と真の信頼関係を結ぶことは出来ないでしょう。本気で、自分の生きる場のこととして、このことを考えましょう。
by oji-church | 2010-05-06 17:30 | 牧師からのメッセ-ジ