日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


by oji-church
プロフィールを見る
画像一覧
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28

<   2010年 02月 ( 3 )   > この月の画像一覧

「いま、ここにある永遠のいのち」

《わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか》(ヨハネ11章25~26節)
★イエスは、「わたしは復活であり、命である」と現在形で語っています。復活を将来いつかのことではなく、いまここのこととして語っています。「決して死ぬことはない」のところは、もとのギリシア語では「永遠のうちにあって、死ぬことはない」と書かれているのです。
★わたしたち、この世に生きている者はやがて死にます。だけれども、わたしたちの生きているこの世界は、神様が創られて「見よ、それは極めてよかった」と、神様に呼びかけられ祝福された世界です。この世界は、神様から「よきもの」とされた、永遠の価値を持つ世界です。そしてわたしたちもまた、この祝福された世界の一部として生きているのです。やがて死んでしまうにせよ、いま生きているわたしたちのいのちは、この世界の一部として、永遠の価値を持ったいのちなのです。死んだからと言って、決してゴミ箱にポイッと捨てられるようなものじゃない。「見よ、それは極めてよかった」と、神様の永遠の慈しみの内に置かれているのだと、イエスは言っているのではないでしょうか。。
★確かにイエスは、市場で売られていた雀、一羽だけでは値段が付かず、二羽まとめてようやく一円という値段が付く雀を指して、あの雀の一羽でさえ、天の父が共にでなければ死ぬことはないと語っていました。いのちとは、どんないのちでも、神様が祝福したこの世界全体ほどにも値高いものなのだとイエス様は語られたのです。だから、いのちのことで何を食べようか、何を着ようかと思い惑うな、あなたたちは価値あるものなのだとも教えられました。そういうわたしを信じるか、信じてくれるか、とここでイエス様は問いかけているのです。
by oji-church | 2010-02-17 10:33 | 牧師からのメッセ-ジ
「生きるとは、借りをチャラにしてもらうこと」

《われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ》(「主の祈り」より)
★主の祈りのこの言葉について、ある人から「わたしはなかなか人の罪を赦すことができません。そうすると、わたしは神様から赦してもらえないのでしょうか。反対に、わたしも神様に罪を赦していただきましたから、わたしも人の罪を赦すことができますように、という祈りなら、分かるような気がするのですが……」という質問を受けて、考え込んでしまったことがありました。
★「罪」と訳されている言葉はマタイ6章では「負い目」と訳され、負債、借金のこと。イエス様はここであえて借金を表す言葉を選んで祈っているのです。
★当時、イエス様の周りにいた農民は重い税金にさいなまれていました。干ばつに見舞われて年貢や税金を納めることができなければ、年貢はそのまま負債となり、返済できなければ土地を取りあげられ、小作人として奴隷のようにこき使われる境遇に陥り、やがてはボロ雑巾のように捨て去られて行くのです。一方で大土地所有者は、小作人から搾取して得た富を蓄えていたのです。人の働きで富を蓄えながら、農民や小作人に対しては苛烈な取り立てをする金持ちがいる、そういう不公平な経済の在り方に対してイエスは、神様にゆるされた人間らしい生き方を望むのなら、まず農民や小作人に課した借金を無しにしたらどうだ、と批判しているのではないか。
★イエス様は抽象的な「罪」のことではなく、借金にあえぐ農民や小作人の人々の具体的な願いを、祈っているのです。イエス様は、「罪」とは、わたしたち人間の神様に対する「借り」と考えていたのかもしれません。生きているというそのこと自体、「借り」をチャラにしてもらっている姿なのだと。
by oji-church | 2010-02-10 12:36 | 牧師からのメッセ-ジ
「いのちのつながりをたどって」

★北支区部落解放委員会の研修会の打合せのために、東京都の食肉市場に行ってきました。職員の方のこんな話に考えさせらました。こうして研修会をやると、時に過剰なまでに自分たちのことを持ち上げる人がいる。誰もやりたがらない仕事を進んでやってくださっている、という具合に。実はそういう態度の裏には、食肉の解体作業などという仕事は特殊な人間しかやらないものだ、自分たちには到底できるものじゃない、という思いこみがあるのじゃないか、と。わたし自身、もしかしたらそんな態度を取ってしまうかもしれないと思い、ドキッとしました。
★牛や豚からお肉をつくる仕事は、わたしたちがお肉を食べるためにごく自然な当たり前の仕事をしているのに過ぎないのに、それを特殊なものとして自分から切り離してしまう。だけれども現にお肉は食べている。そんなつじつまの合わないことを、もしかしたらわたしたちはしているかもしれません。お肉をつくる仕事に携わる人たちに対する差別は、いまも解消されていません。ぜひこの仕事を自分の目で見て、その気になれば誰でもが携わることのできる普通の仕事なんだということを感じ取ってほしい、と職員の方は訴えていました。
★わたしたちは普段、わたしの命、あなたの命と、命をそれぞれ別々のものとして考えていますが、命のつながりは、食べ物のことを考えればよくわかります。わたしたちが食べる物はいずれも他の生物の命です。それがわたしたちの食卓に届くまでには、やはり多くの命担う人の働きの手が加わっています。それ無しには、わたしたちは自分の命一つを生かすことができません。でも、わたしたちはしばしばそれをすっかり忘れ去って、競争に明け暮れ、人を見下したり、見捨てたり、あるいは人を羨望やねたみのまなざしで見たりしています。この命のつながりを見失えば、やがて自分の命を失っていくより他ないでしょう。
by oji-church | 2010-02-05 15:25