日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「思考停止のカラを破ってみどりごが生まれる」

《災いだ。背く子らは、と主は言われる。彼らは謀(はかりごと)を立てるが、わたしによるのではない。盟約の杯を交わすが、わたしの霊によるのではない。こうして、罪に罪を重ねている。……たとえ高官らがツォアンにおり、使者らがハネスに遣わされても、彼らはすべて益を与えぬ国のゆえに、うろたえるだけだ。その国は助けにならず、益を与えず、恥と嘲りの種になるだけだ。》(イザヤ書30章1~5節)

★先週、わたしたちの住まう国は「日米安保50年」を迎えたそうです。朝日新聞には19日に、「安保条約50年 日米同盟成果と展望」という三人の論者の鼎談が載っていました。
★それを読むと、「日米安保がなかったら日本は軍事大国化した」「日米安保がなければ、近隣の国が攻めてくる」という固定観念から一歩も踏み出せない「思考停止」が強く感じられました。その一方で、日本はもっと世界的な軍事作戦に「貢献」できるようになって、アメリカと安全保障面で「対等」な関係を持つべきとの、それこそ「軍事大国化」に突き進むことになるであろう論調との矛盾をどう考えるのでしょうか。論者が元外務官僚の外交評論家、防衛大学校教授、現防衛政務次官というメンツでは、こういう結論になる他ないのかもしれませんが。
★過去に関わっては、こうした軍事同盟がどれだけの人々に犠牲を強いてきたかの反省もなく、将来に関わっては、軍備に依存しない国際関係の追求という探求心もない、こうした思考停止が、現になお沖縄の人々の生活と命をむしばみつつあることを思います。
★軍事的な同盟が、人間のいのちに対して何も益をもたらさないことを2千年以上前に預言者イザヤは見抜いていました。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた」との言葉もイザヤにはあります。わたしたちがこの思考停止のカラを破って、みどりごとして甦ることを願いたいと思います。
by oji-church | 2010-01-27 17:25 | 牧師からのメッセ-ジ
「人間の悲惨とイエスの傷」

《「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。……「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」》(ヨハネ20章25~29節)

★ここでは、トマスが復活したイエス様から「見なければ信じない者」として叱られているように読めます。けれどもこの場面を読み返す中で、トマスの態度は、実は大切なことを教えているのではないかと思うようになってきました。
★わたしたちは、救い主と言えば美しく整えられた姿を思い浮かべるのではないでしょうか。わたしたちがもしトマスの立場に立ったなら、「あの方が、真っ白いキレイな服を着て現れ、そのサラサラの布に触れ、そのきらびやかに輝く後光に目をくらませるのでなければ、わたしは決して信じない」なんて言ったかも知れません。トマスは、わたしたち人間の惨めさ、情けなさ、どうしようもなさをその身に負われたがゆえに、手に釘の跡を開け、わき腹に槍の跡を黒々と開けた傷ついた方こそ、本当の聖なる方なのだと訴えているのです。
★韓国の詩人金芝河の戯曲『荊冠のイエス』の中で、金の冠をかぶせられたイエスの像は、「どうか自分を虜囚の身から自由にしてくれ、解き放ってくれ」と懇願し、「どうすればイエスよ、あなたを自由にすることができますか」と尋ねる「ライ病人」に対して、「それを可能にするのは、おまえたちの貧しさ、おまえたちの知恵、おまえたちの柔和な心、いや不正義に反抗する、おまえたちの勇気。…私には荊冠がふさわしい。金冠など、無知で欲深く腐ったものらが、外見を飾るために私にしたお仕着せなのだ」と語り、金の冠を外して荊の冠を被せてもらいます。「聖」とは、世にあって決してキヨクないわたしたち人間の惨めさ、情けなさ、どうしようもなさと、それゆえに傷つきながらなおその傷ついた体を背負いわたしたちと共にあろうとするイエスとの出会いなのでしょう。
by oji-church | 2010-01-22 17:13 | 牧師からのメッセ-ジ
「いま、ここ、という時のなかに」

★新しい年が明けました。ここに来て1年という時間が文字通りあっという間に過ぎ去ってしまうことに我ながら驚いています。
★こんな話を聞きました。子どもの頃には時間はゆっくりと流れ、一日もあんなに長く感じられたのに、大人になるとどうしてこんなに時間が速く過ぎ去ってしまうのか。その答えです。5歳の子どもの1年は人生全体の5分の1。ところが50歳の大人の1年は人生全体の50分の1。すると5歳の子どもの1年は50歳の大人の10年に相当するということ。確かめようはありませんが、なるほどと思わされます。
★キリスト教の公式見解では、時間は天地創造の時に神様によって造られて、やがて終末にキリストが再臨し、最後の審判を経て、時間は終わりを告げるということになっています。けれどもイエスは時間というものをそんなふうに考えていたのでしょうか。
★イエスは、神の国を、未来に訪れ、時間に終わりを告げるものというより、いまここにすでにわたしたちのすぐ身近にあるものとして感じていたように思います。「空の鳥をよく見なさい。野の花がどのようにして育つのか、注意して見なさい」と語った時、イエスのまなざしの先には空を横切る鳥が見えていたでしょう。またその足下には、野の花が小さな可憐な花を咲かせていたことでしょう。
★イエスは、いまここという時間にただ中に、神の国が来ていることを実感していたのだと思います。イエスが未来を見つめるまなざしは、やがて誰もがこの、いまここに神の国が訪れているのだということを、はっきりと感じ受ける時が来る、という展望であったでしょう。
★一年が長いか短いかは分かりませんが、いま、ここという時間の中に、鳥を養い、野の花を咲かせる神様の働きが生きていることを少しでも感じ受けながら、命を大切に愛おしむ時を、この一年過ごしてゆきたいと願います。
by oji-church | 2010-01-15 17:28 | 牧師からのメッセ-ジ
「新年の挨拶」

★新年あけましておめでとうございます。年末に、2008年度の『道』を読み返していました。あちらこちらを引っ繰り返しながら読み進むうちに、一番最後の「王子教会の一年のあゆみ 2008年4月~2009年3月」というところにたどり着きました。
★一昨年の年末年始のあいだには、「11月11日(火)N姉ご葬儀」、「1月8日(水)T姉ご葬儀」「1月13日(火)G兄ご葬儀」と書かれています。あれからもう一年も経ったのだな、という思いと同時に、お一人お一人のことを思い起こし、その面影といまとの時間とのあいだを計って、改めて、いのちにとって一年という時の長さがどのくらいのものなのか、先に天に召された方々から教えられた気がしました。
★作家の大江健三郎さんが『新年の挨拶』という本の中で、こんなことを書いています。「チャンピオン」(Champion)という英単語の意味を巡って。COD(The Concise Oxford Dictionary)という英語の辞書には「チャンピオン」という言葉の意味として「ある人のために代わって戦ったり、ある主義主張のために代わって議論する人」ということが書かれているそうです。単に「勝利した人」という意味ではないのです。
★改めて、一昨年の年末から昨年の年始にかけて天に召された方々を思い起こし、確かにお一人お一人がわたしたちに代わって、「生きる」ということ、その戦いを戦い抜き、天に召されていかれたのだなという思いを新たにしました。と同時に、いま、わたしたちがあの方々に代わって、この世で生きることの戦いをしているのだという思いも。新しい年、すでに天に召された方々に代わって、今わたしたちがここに生かされていることを覚えながら、歩んでゆきたいと願うものです。
by oji-church | 2010-01-08 16:50 | 牧師からのメッセ-ジ