日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


by oji-church
プロフィールを見る
画像一覧
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

<   2009年 11月 ( 4 )   > この月の画像一覧

王子教会は1893年の創立以来、116年にわたり王子の地でキリスト教会の活動を行ってきました。2007年5月に教会堂を建て替え、心新たに地域の皆様と共に歩んでゆきたいと願っております。このたびは、新しい教会堂を地域の皆様にご紹介いたしたく、オープンチャーチを計画しました。
バザー・お食事・音楽会をご用意してお待ち申し上げております。

日時:11月23日(月・勤労感謝の日)午前10時~午後3時
場所:王子教会


《プログラム》
バザー 午前10時~午後1時
 *日曜雑貨・食料品をご用意しています。
お食事 午前11時30分~午後1時
 *カレーライス、コーヒー、ケーキをご用意しています。
音楽会 午後1時~2時30分
 *トランペット、クラシックギター、ミュージックベルの演奏会です。入場無料。
このほか、子どもコーナー(10時~11時30分)もご用意しています。


*下の絵は、オープンチャーチのポスターのために、イラン人難民の方が描いてくださいました。
e0088612_15571215.jpg

by oji-church | 2009-11-23 23:59 | 全体のお知らせ
「歴史を祝うのではなく」

★今年を「プロテスタント日本伝道150年」として祝う向きがあります。これについては、それ以前の1846年に沖縄にベッテルハイム宣教師が来訪し伝道を始めていることが抜け落ちているという指摘もあります。そればかりでなく、本来それぞれの地に「伝道○○年」があるのを「日本」というくくりでくくってしまっていいのかという問題もあります。そうした「違和感」を感じて、わたし自身はほとんど触れずにきました。
★しばしばわたしたちは歴史を「祝う」ものとして見つめます。折しも先週は「天皇即位20年祝典」がテレビに流れています。しかし歴史とは本来「祝う」ものではなく、そこから学ぶべく「検証」されるべきものではないでしょうか。
★明治維新以後、戦争に至るまでの期間、調べると数多くの歴史を「祝う」催しがあったことが分かります。「祝う」ばかりで「検証」を怠った結果が、あの戦争であったとも言えるでしょう。今の「祝い」が戦争へと繋がらないように、わたしたちは冷静に歴史を見つめるまなざしを失わないようにしなければなりません。
by oji-church | 2009-11-20 15:13 | 牧師からのメッセ-ジ
「共に天に坐す」

《しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、…キリスト・イエス・キリストによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました》(ガラテヤの信徒への手紙2章16節)

★イエスが「天にのぼり、神の右に坐したまえり」と使徒信条が語るその前には、そのイエスが「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」とあります。十字架の死は当時、もっとも低い身分の人間の死に様に他なりません。本来であれば、遺体はそのまま十字架につるされて放置されるか、野ざらしの死体置き場に放り込まれるか。徹底的に人間としての尊厳をはぎ取られる扱いを受けたのです。
★使徒信条は、そんな人間としての尊厳をはぎ取られた人物が、しかし「天にのぼり、神の右に坐したまえり」と語るのです。古代のクリスチャンたちは、イエスが特別に高い身分の人間として天にのぼったとは言わなかった。むしろ反対に、最低の人間として、人間としての尊厳をすべてはぎ取られ、見下され、唾吐きかけられたイエスが、「天にのぼり、神の右に坐したまえり」と語り起こしたのです。
★決してイエスは、特別に選ばれた、この世の最高の身分の人間として、たった一人天にあげられたのではない。むしろこの世で見下され、人間としての尊厳をはぎ取られてしまっているような人のただ中に生き、そしてそのような人々と共に天にあげられて、神様の傍らに坐しているのだ、ということです。
by oji-church | 2009-11-13 17:10 | 牧師からのメッセ-ジ
「イエスの信」

《人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました》 (ガラテヤの信徒への手紙2章16節)

★ここのところで、新共同訳の聖書で「イエス・キリストへの信仰」と訳されているところは、元のギリシア語では単に「イエス・キリストの信仰」と書かれています。「イエス・キリストへの信仰」と言えば、わたしたちが「イエス・キリストを信じる信仰」という意味になりますが、「イエス・キリストの信仰」とは、イエス・キリストが信じている信仰という意味になるはずです。
★一方「信仰」と訳されているギリシア語は「ピスティス」という言葉で、元は「何かに信頼を寄せる態度」あるいは、「人から信頼されるに足る誠実な態度」という意味があります。誰かに向かって純粋に信頼を寄せる態度は、同時に人から信頼されるに足る誠実な態度でもあります。
★イエス様は神様に向かっては、純粋に、その人に寄せるいつくしみを信じて止まなかった。そうして、その神様への信頼感をもって、人々に手を差し出し、触れ、癒し、愛おしみ、言葉を掛け、その傍らに寄り添った。そんなイエス様の態度によって、わたしたちは「義とされる」(神様から「よし」とされる)ということがここでは語られているのでしょう。
★わたしたちが「信じられる」とか「信じられない」とかいう、わたしたちの側の態度の問題ではなく、多くの人間の尊厳をはぎ取られていた人々に対するイエスの変わりない「信」によって、わたしたちは救われるということ。そこに思いを潜めていくことが、求められているのでしょう。
by oji-church | 2009-11-04 15:50 | 牧師からのメッセ-ジ