日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「ガリラヤの訛りゆえに」

《ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。》 (マルコによる福音書14章70~72節)

★この場面をゆっくり読み直してみてあることに気づきました。「お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」とは、おそらくはペトロの言葉がガリラヤ訛(なま)りだったからでしょう。顔では見分けはつかなかったでしょうから。
★対してペトロは「呪いの言葉さえ口にしながら、…誓い始めた」と言います。原文では「呪い始め、…と誓い始めた」という具合に「始める」が「呪い」と「誓い」に掛かっていて、ペトロがますます口数多くイエスを否定し始めたことが伺われます。もし訛りによって身元がバレそうだったのなら、しゃべればしゃべるほど正体はバレてしまいます。口数多くイエスを否定し始めたペトロは、もうすでに周囲の人にあからさまに身元はバレていたということになります。
★しかしペトロは逮捕されません。周囲の人(大祭司の部下)にとってペトロは逮捕するまでもない「こもの」だったということでしょうか。この時ペトロは、かつて「たとえ一緒に死なねばならなくなってもあなたを知らないなどとは言わない」と言った自分が、一方ではその言葉を裏切って「イエスを知らない」と言ってしまい、他方では自分が実は、身元が知られても逮捕さえされない「卑小」な人間であったという、二つの面で、自分の「惨めさ」を暴き出されてしまっているのです。それゆえペトロは「いきなり泣き出した」のでしょう。
★しかしガリラヤ訛り丸出しに、裸にされたこの「卑小」なペトロに向けて、ガリラヤでの再会が約束されている(マルコ14:28)ところに、「福音」の深い意味が隠されているのではないでしょうか。
by oji-church | 2009-10-30 14:34 | 牧師からのメッセ-ジ
「まさか、わたしのことでは」

《一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」 》 (マルコによる福音書14章18~21節)

★「生まれなかったほうがよかった」とは、その人が生きて存在してきた事実の否定です。マタイ福音書では、この言葉通りユダは自殺してしまいます。使徒言行録には、「ユダは不正をはたらいて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました」ともあります。
★ユダは地獄に堕ちる者として語られます。イエスを売り渡したことへの復讐です。しかしイエスの十字架の苦難は、復讐をもたらすためのものでしょうか。わたしたちは、復讐の思いから戦争が引き起こされ、無数の罪無き人の命が奪われ、さらに復讐が復讐を呼び起こす果てしない暴力の連鎖を目の当たりにしました。
★この場面のユダ以外の弟子たちの様子は忘れられがちです。ダヴィンチの『最後の晩餐』の中でユダの姿はどちらかと言えば控えめで、むしろ他の弟子たちの大げさな身振りが目に付きます。「心を痛めて」とは「苦しい」という言葉で、むしろ「苦し紛れに」と訳した方がいいと思います。弟子たちは苦し紛れに「まさか、わたしのことでは」と、自分たちは関係がないことを訴えたのです。この世のマイナスの有様を遠ざけ、自分は無関係としようとしています。「わたしは悪くない」。しかしただ一人この場面で「まさか、わたしのことでは」と訴えなかった弟子がいます。それがユダです。
by oji-church | 2009-10-21 10:14 | 牧師からのメッセ-ジ
「お肉はどうやって食卓に」

★9月28日に北支区部落解放委員会と部落解放青年ゼミin関東主催による品川食肉市場でのフィールドワークに参加してきました。
★職員の方々との懇談が非常に印象にのこりました。わたしたちは食物に関して、しばしば思い出したように「いのちをいただく」という表現をします。その際、お魚や農作物の場合には、魚や米を「殺している」ことを思い浮かべる人はほとんどいないでしょう。しかし、お肉の場合、牛や豚を「殺す」ことに思いが向けられがちです。そのことが食肉を生産する人への差別を産む要因ともなっています。
★また、水産品・農作物について学校では、生産流通過程が詳細に教えられますが、食肉についてのみ、と畜を含めた生産流通過程が教えられません。一方に牧場の牛や豚がいて、もう一方にはすでに「お肉」となって店頭や食卓にならんでいる光景が語られるばかりです。そこには、「豚や牛を『殺す』という過程は子どもたちに悪影響を与える」という予断があるのかもしれません。
★実際、食肉の生産に携わる人たちは、牛や豚を「殺す」人間としてではなく、「食肉を作る職人」として高い誇りを持って仕事に当たっておられます。そのことを丁寧に説明すれば、子どもたちは「お肉が食べられなくなったら困る」と素直に受けとめるそうです。これに対して大人は、なかなか受け入れることができない。そんな大人の予断や偏見によって、なお食肉生産に携わる人たちへの心ない差別が絶えないことが語られました。わたしたちが日々口にしている食物です。わたしたち自身の事柄として、受けとめ直してみる必要があるように思います。
by oji-church | 2009-10-15 11:01 | 牧師からのメッセ-ジ
「『わたしも』と語る傍らに」

《(1節)兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。(2節)なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。(3節)そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした》(Ⅰコリント2章1~3節)。

★3節のところ「わたしは衰弱していて…」と訳されていますが、実は原文では「わたしも」となっています。1節にも「わたしも」とあります。パウロが2度「わたしも」と語る間に2節があって、そこには「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい」との言葉があります。
★パウロはコリントの教会に訪れる前、アテネの町で伝道に失敗していることが使徒言行録には書かれています。アテネでの伝道の失敗に意気消沈して、ボロボロの状態でコリントにやってきたと言うのです。
★パウロが、「わたしも」と繰り返し語るその裏には、あの「十字架にかけられたままの姿の」イエス様がおられます。イエス様はきっと十字架の上で「優れた言葉や知恵を持たず」「衰弱し、恐れに取りつかれ、ひどく不安」だったろう。そうであるからこそ、パウロは失意の中にあっても独りぼっちじゃない、「わたしも」と語ることができたのです。パウロは繰り返し「わたしも」と語りながら、言外に「イエス様がわたしと一緒におられる」と言い表しているのです。
★世の中から排除され、追い払われてしまうのじゃないかという恐れ、不安、そういうものを、イエス様がパウロに手をさしのべ、パウロの手を握り、パウロの体に自分の体を触れ合わせて、そうしてイエス様が、パウロのつらい気持ちをいま共に感じ取っていてくれる。一緒に感じていてくれるということ、です。
by oji-church | 2009-10-06 16:50 | 牧師からのメッセ-ジ