日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


by oji-church
プロフィールを見る
画像一覧
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30

<   2009年 09月 ( 6 )   > この月の画像一覧

「水平の力」

★使徒信条には「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」とありますが、「苦しみを受ける」とは、ラテン語の原文では「パッスス」という一つの言葉で、もとは単純に「受ける」という意味の言葉です。だから単に「ポンテオ・ピラトのもとに『受けて』」と言い換えることもできるはずです。
★「回診をする。患者さんはベッドに横になっている。元気になって退院するか、悪くなって死を迎えるか、それまではベッドに横たわる。病気が思わしくない時、患者さんの横にもうひとりの人がいるのをよく見る。病気でもない人が病室にいる。患者さんのそばにいる。じっといる。…『ピンポン、ピンポーン』。ナースコールが鳴る。『食べれんです。苦しいです』。もうひとりの人は用事で出かけている。…鎮痛薬も安定剤も何も効かない。…看護婦さんも困り果てる。その時もうひとりの人が買い物袋を下げて帰ってくる。『遅くなってごめんね』。ナースコールはぴたっと止む。不思議なことに痛みもピタッと。死にゆく人は垂直の力の中にある。心は天に、体は重力で地に向かう。もうひとりの人がそばにいると、二つの物体の間に引き合う水平の力が生まれる。垂直の力の中に水平の力が加わると、死は温かい」(徳永進『こころのくすり箱』より)
★いのちはどの人のいのちも「受けた」ものであり、それはまた、別の誰かに注ぎ出されていく。いのちといのちは、確かに繋がりあっている。一人の人の苦しみは、別な人のための苦しみであり、その苦しみは、また別な人の苦しみであり得る。わたしが苦しむイエスのそばにいる。すると、苦しむわたしのそばにイエス様がおられることが分かってくる。その時、確かに、あのイエスの苦しみが、わたしたちのためのものである。そんな命の持つ、「水平の力」をわたしたちに示すために、イエス様はあの苦しみの生涯を送られたのでしょう。
by oji-church | 2009-09-30 14:07 | 牧師からのメッセ-ジ
「心という穴」

★15年前に妻を白血病で亡くされた元高校の数学教師だった患者さん。娘さんが二人おられ、「痛い」「眠れん」「さすれ」「泊まれ」…と甘え、訴える。娘さんたちは「お母ちゃんは静かに死んだのに、お父ちゃんは、いろいろうるさーい」とストレートに投げかける。それに救われて、ホスピスの病院の支援の力が豊かにされる。死の前日、二人の娘さんは患者さんのベッドに川の字になって眠った。
★そして亡くなった。死後の処置の時、娘さんが聞く。「看護婦さん、父さん、三途の川を渡る時、『痛い、痛い』って言って、よう渡り切らんてことないですよね」。看護婦さんが答える。「じゃあ、その痛み止めの坐薬、入れときましょうか」。鎮痛剤の坐薬を二個挿入した(徳永進『心のくすり箱』より)。
★徳永さんは「薬はどこから体に入ってゆくのか」と問う。解剖学的には注射なら皮下、筋肉、血管内。注射薬でないもののほとんどは口から。その他、目、耳、気管支、肛門など。しかし人の心の状態によって、せっかくの薬も効かないことがある。薬は心を通って体に入ってくると徳永さんは言う。「この薬よ効いてくれ」と祈らないと、薬は効かないとも。
★わたしたちの体には解剖学的な穴の他に、心という穴が開いているのかもしれない。この心の穴を通じて、人間同士は繋がっているのだと思う。この穴を通じて、人の痛みがわが痛みとなり、わが痛みが人の痛みとなり、そうして、不思議とはわたしたちは痛みから解放される。残念ながらわたしたちの心の穴は、長年の垢でだいぶふさがってしまっているようにも思う。イエスという人の生き様、死に様は、この穴の所在を示しているのかもしれません。
by oji-church | 2009-09-26 11:14 | 牧師からのメッセ-ジ
「主が共におられるということ」

《おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる》(ルカ1:28)
★主は「あなたは身ごもって男の子を産む」という仕方で「共におられる」。それは口先だけ「共にいる」と言うのでなく、一人の、田舎の、名も無き女性の、「不適切な関係」を疑われるような、危ない身の上の、まさにその身に宿ることを通じて、まさに人のただ中に、人の危機のまっただ中、どこにも足場がないと思える、この世の混沌のまっただ中に人と共におられるということ。
★「おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、死にて葬られ…」と受け身を重ねて語られるイエスの生涯は、わたしたち自身と同じ惨めな姿をしています。「聖霊によって宿った」とは、それでもなお、そんな無力な人間の命が、神様によって、この上なく愛されているということを告げています。この世に生きるすべての人が「聖霊によって宿った」のです。
by oji-church | 2009-09-17 09:35 | 牧師からのメッセ-ジ

ホテイアオイの花

メダカ用の睡蓮鉢にホテイアオイを浮かべていました。やたらと増えて困っていたのですが、ある日突然、可憐な花を咲かせました。一日でしぼんでしまいました。
e0088612_16115757.jpg

by oji-church | 2009-09-09 16:12 | みちばたの教会
「新潟に行ってきました」

★9月1~3日にかけて、新潟で行われた教団の開拓伝道協議会という会合に出席してきました。3日間、燕、三条、見附、十日町、柏崎、寺泊と中越地方をバスでぐるりと回りました。水害や地震の被災地を巡る旅でした。
★わたしたち被災地から離れたところに住む者は、テレビや新聞のニュースが出てこなくなれば、災害は「済んだ」ように思ってしまいますが、いまなお災害の傷が人々の心に残されていることを知らされました。
★災害に遭った人たちは、「自分たちよりももっと被害の大きい人たちがいるのでは…」といった心理から被害を訴える声を挙げにくいこと、外部の地域からボランティアに来た人や救援の品などにより、かえって被災地の人たちが傷つくことがあること、それでもなお被災者は助け合いによる再生を望んで支え合っていることなど、深く考えさせられることがたくさんありました。

写真は柏崎の海岸です。対岸にうっすら見えるのが佐渡です。
e0088612_163761.jpg

by oji-church | 2009-09-09 15:42 | 牧師からのメッセ-ジ
「『日本を守る』って、何を守るの?」

《そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである」(マルコ13章21~22節)
★「日本を守る」。このところの選挙戦の中で、そんな言葉が勇ましく語られるのをしばしば耳にしました。これを聞くと、思い出す言葉があります。「『日本兵がおきなわをまもる。日本兵が日本をまもる。おまえたちはでろ! でないところすぞ』 みんなはおそろしくなって、はかをとびだしました」(丸木俊・丸木位里『おきなわ 島のこえ』より)。
★沖縄戦の中で、母親と子ども二人おじいさんとおばあさんの家族が、砲弾の中を逃げまどい、亀甲墓という沖縄特有の大きな墓の中に逃げ込みます。ほっとしたのもつかの間、そこの3人の日本兵が入ってきて、上のように叫び、そこに避難していた人たちを追い出します。実際にこのようなことは、沖縄戦の最中、しばしばあったそうです。泣き声をあげる乳飲み子を、米軍に見つかるとの理由で殺すこともありました。
★「日本を守る」と言って一体何を守るというのだろうか。「ここ」「あそこ」と自分の回りに線を引いて居場所を決めその内側に安住しようとする気持ちを、わたしたち誰もが持っていますが、その時、わたしたちは線の「外側」が見えなくなってしまうものです。しばしばわたしたちは、境界線上に生きる人、線の「外側」に生きる人の生命を犠牲にして、線の内側の安住を得ているのです。
★先々週、故国での迫害を逃れて日本に来ている難民申請者の友人が、入国管理局の収容所に収容されました。「日本を守る」と言っている人たちが、この人を守らないことは確かなようです。
by oji-church | 2009-09-04 17:07 | 牧師からのメッセ-ジ