日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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<   2009年 08月 ( 3 )   > この月の画像一覧

「要求ではなく空白に耳を傾ける」

★わたしたちの社会は様々な要求に満ちあふれています。「ああしなさい、こうしなさい」という要求。それは言葉に出して命令されることもありますが、大人になれば多くの場合は、言葉にだされない内に求められるものです。人様に恥ずかしくないように、世間の常識では云々。テレビを点ければ、新聞をひらけば、町を歩けば、様々な宣伝が「あれを買いなさい。これを買ったほうがいい」とわたしたちに要求します。そうした世間の有形無形の要求に応えることができるかどうか、という点で、わたしたちの人間としての価値が計られるのです。
★戦争では、こうした要求に応えられるかどうかということが、最大の関心事となります。戦闘に耐え得るかどうかが値踏みされ、戦争の邪魔になると見られる者は疎開させられ、沖縄ではついに軍の命令によって、互いに殺し合い、自分自身の命を絶つことを強制されたのです。
★「ワラビンチャー ヒンギリヨー ヌチドゥタカラ」(こどもたちよ、にげなさい。いのちこそたから)(丸木俊・丸木位里『おきなわ 島のこえ』より)。沖縄戦を経験された方々の証言には、核心部に言葉にならない空白があると言います(同書、平良修さんのあとがきより)。この一つの声は、あの言葉にならない空白の奥の奥から響いてきた声です。それはまた、「いのちこそたから」であるにもかかわらず、互いに殺し合うことを強制された沖縄の人たちの深い深い悲しみ、痛み、うずきを言い表す言葉でもあります。静かなところで、この沖縄の人たちの、言葉にならない思いから絞り出された静かな声に耳を傾けること。それこそが、平和を考えることなのでしょう。
by oji-church | 2009-08-25 16:15 | 牧師からのメッセ-ジ
「うそのない世界」

★1945年8月6日8時15分広島。1945年8月9日午前11時2分長崎。それぞれの日から64年が経ちました。政府は、原爆症患者の抜本的な救済策を提示しましたが、なお、この救済策からも漏れる人たちがあります。なお、原爆は終わっていない、終わらないことを、わたしたちは知らされます。
★「先生はたとえどんな小さなことでも、わるいことをすれば、えいきゅうにそのつみはきえないのだと思います。それを一生もって生きていくのが、人間の生きていくすべてだと思います」(灰谷健次郎『わたしの出会った子どもたち』)。チューインガム一つを盗んだ女の子に対する灰谷先生の言葉です。女の子は、先生の前で泣きながらこんな詩を書きます。

せんせい おこらんとって
せんせい おこらんとってな
わたし ものすごくわるいことした

わたし おみせやさんのチューンガムとってん
一年生の子とふたりで/チューインガムとってしもてん
すぐ みつかってしもた
きっと かみさんが
おばさんにしらせたんや
わたし ものもいわれへん
からだが おもちゃみたいに
かたかたふるえるねん

……

「こんな子 うちの子とちがう 出ていき」
 おかあちゃんはなきながら
 そないいうねん

 わたし ひとりで出ていってん

 ……

 おそうに うちへかえって
 さかなみたいにおかあちゃんにあやまってんけど
 おかあちゃんは わたしのかおを見て ないてばかりいる
 わたしは どうして
 あんなわるいことしてんやろ

 ……

★「安子ちゃんが、この詩をかいたことは、そのうそのない人間になろうとしているあかしだと、先生は思います。だからこそ、先生は、安子ちゃんの詩をよんで、なみだがでたのです」。
★おとなたちが、過去の罪に対してどれだけ真摯に向き合っているかを問われます。うそのないおとな、うそのない世界が求められます。
by oji-church | 2009-08-20 11:11 | 牧師からのメッセ-ジ
 「痛みと熱い思いと信仰」

《トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」……それからトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」》(ヨハネによる福音書20章25~27節)

★ここで「この指を釘跡に入れてみなければ…この手をわき腹に入れてみなければ…」とある「入れてみる」という言葉は、もともと「投げ込む」という意味の言葉です。結構乱暴な言葉で、強いて言えば「ぐいぐい突っ込む」といった具合でしょうか。
★自分の悩みに心を失ってしまう時、わたしたちはしばしば人に当たり散らすことがあります。自分がどれだけ人を酷く傷つけているのかさえ、気づけなくなってしまいます。そういうわたしたちの有様こそ、人間の最も奥深い「業」とでもいうものを表しているのかもしれません。
★そんな「業」に縛られたトマスに、イエスは静かに語りかける。「あなたの指をここに当てて、わたしの手をご覧なさい。あなたの手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい」と。このイエス様の言葉を聞いた瞬間に、トマスの手のひらと脇腹にも痛みが走ったことでしょう。その痛みと共に、トマスの胸の奥底から熱い熱い思いが込み上げてきたのでしょう。それが言葉になったのです。「わたしの主、わたしの神よ」。
★信仰とは、「正しい教理」に従うなんて理屈っぽいことではなく、こんな熱い思いの内に、不思議と沸き上がってくるものなのだと思います。
by oji-church | 2009-08-05 17:50 | 牧師からのメッセ-ジ