日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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<   2009年 07月 ( 5 )   > この月の画像一覧

「自分以外の人間が住んでいる」

《トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」……それからトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」》(ヨハネによる福音書20章25~27節)

★「いい人ほど勝手な人間になれないから、つらくて苦しいのや、人間が動物とちがうところは、他人の痛みを、自分の痛みのように感じてしまうところなんや。ひょっとすれば、いい人というのは、自分のほかに、どれだけ、自分以外の人間が住んでいるかということで決まるのやないやろかと、ふうちゃんは生みを見ているゴロちゃんやキヨシ少年を見て思った」(灰谷健次郎『太陽の子』より)。
★このところ灰谷健次郎さんの本をゆっくり読みながら、上の「自分以外の人間が住んでいる」という言葉の意味を思いめぐらせています。自分の内側に自分以外の人間を住まわせるというのは、そう簡単にできることではありませんが、そのことを通じてこそ、わたしたちは他人に「優しさ」というものを注ぐことが出来るようにさえ、それを通じて、人間同士の豊かな出会いとつながりは生まれてくるのでしょう。イエスの説いた「福音」も、やはり人間同士が互いに自分の内に相手を住まわせることへと開かれてゆくことだったのではないかと思います。
★上の聖書のトマスの言葉には、そのように自分の内側に自分以外の人間を住まわせることに、随分と苦しんだ跡が見えます。しかし、自分自身の傷をあらわにするイエスに接して、トマスは開かれていったのだと思います。イエスの傷は、他者へと開かれてあるイエスの生き様を示しています。
by oji-church | 2009-07-29 09:41 | 牧師からのメッセ-ジ
「階段と絶壁」

★7月17日(金)に、北支区社会部と部落解放委員会、信濃町教会の共催で、生活困窮されている方の支援に携わるNPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」の方をお招きして、集会を行いました。
★その中で「もやい」の代表理事の稲葉剛さんが、紹介された「カフカの階段」という話が印象に残りました。チェコ出身の作家カフカがこんなたとえ話をしています。「たとえてみると、ここに2人の男がいて、一人は低い階段を5段ゆっくり昇っていくのに、別の男は1段だけ、……先の5段を合わせたのと同じ高さを、一気によじあがろうとしているようなものです。先の男は、その5段ばかりか、さらに100段、1000段と着実に昇りつめていくでしょう。……しかしその間に昇った階段の一つ一つは、彼にとってはたいしたことではない。ところがもう一人の男にとっては、あの1段は、険しい、全力を尽くしても登り切ることのできない階段であり、それを乗り越えられないことはもちろん、そもそもそれに取っつくことさえ不可能なのです」(カフカ「父への手紙」より)。
★階段をゆっくり上っていくのは家と仕事を持っている人。同じ高さの絶壁を登ることを余儀なくされているのが、家と仕事を失ってしまった人です。ひとたび家・仕事を失ってしまった人は、そうでない人と同じ成果を上げるために、ほとんど不可能と思える努力を要求されるのです。それが今、わたしたちが暮らしている社会なのです。
★「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」(マルコ12:10~11)。競争を煽る世界情勢をすぐには動かせなくても、この絶壁の前に石を一つずつ積み重ねて、登る道を作り出すことはできないかと思うのです。
by oji-church | 2009-07-21 10:53 | 牧師からのメッセ-ジ
「わたしたちは、本当に、『誰でもいい』のか」

★突然に激しい暴力が暴発し、何人かの人の生命が奪われて、後から「誰でもよかった」とつぶやかれる。そんな出来事が続くわたしたちの社会です。「誰でもよかった」とは、競争社会の中で人間性を摘み取られ、「誰でもいい」モノとされてしまった人の、爪を立てて、必死になって、何とか人間性にしがみつこうとした、その最後の叫びであるかのように響きます。誰が、彼から、人間性を奪ったのか。
★外の通りでは選挙カーがけたたましく候補者の名前を連呼し、「この人でなければ…」と訴えています。それを聞けば聞くほど「誰でも同じ」と思えてきてなりません。なりふり構わず「自分の当選」だけを欲すれば、人間はみな同じような、はしたない顔つきになってきます。こうして、街に名前の連呼される人たちこそが、人間の尊厳(かけがえなさ)を貶めているのかもしれません。
★どつからしみ出してくるんだ。この寂しさのやつは。
……
遂にこの寂しい精神のうぶすなたちが、戦争をもつてきたんだ。
君達のせゐぢやない。僕のせゐでは勿論ない。みんな寂しさがなせるわざなんだ。
……
誰も彼も、区別はない。死ねばいゝと教へられたのだ。
ちんぴらで、小心で、好人物な人人は、『天皇』の名で、目先まつくらになつて、腕白のやうによろこびさわいで出ていつた。
……
僕、僕がいま、ほんたうに寂しがつてゐる寂しさは、
この零落の方向とは反対に、
ひとりふみとゞまつて、寂しさの根元をがつきとめようとして、世界といつしよに歩いてゐるたつた一人の意欲も僕のまはりに感じられない、そのことだ。そのことだけなのだ。
昭和二〇・五・五 端午の日
(金子光晴「寂しさの歌」より)
★本当に本気になってこの「寂しさの根元」をつきとめて、ひとり踏みとどまる人間のかけがえ無さを見いださない限り、人は次々と「誰でもいい」モノとされてゆき、同じことが繰り返されるように思うのです。
by oji-church | 2009-07-15 14:09 | 牧師からのメッセ-ジ
「東京で部落解放をよびかける意味」

★来年6月に「部落解放全国会議」という大きな会合を東京で催すことになりました。いまから準備のための話し合いを重ねています。先週は週の半分が関連する会議で埋まっていました。
★話し合いの中で、ある人がこんなことを語られました。ある人が差別的な発言をします。それで傷つく人がいます。しかし発言をした人が「自分は差別するつもりで、その発言をしたのではない」と言えば、それでその発言は差別ではないということにされてしまう。そういう風潮が広まっているそうです。傷ついた人の痛みの持って行き場はどこにもなくなってしまいます。
★被差別部落出身の人が最も多く集まっているのが東京であるとも言われます。しかし東京は部落差別に対する意識が低い場所でもあります。意識のないところで顔の見えないまま、人が人を傷つける発言をする場面だけが増えていきます。人が多く集まる大都市で、誰にも知られないという気安さの一方、困った時に誰も助けてくれないという冷たさが、わたしたちの人間性を奪っていると言ってもいいでしょう。
★その中で「人の世に熱あれ。人間に光あれ」(水平社宣言)という呼びかけから始まった部落解放の働きの積み重ねから、わたしたちが学ぶべきことは多くあると思います。差別の痛みを身をもって知り、人間に対する尊敬をもって差別を乗り越えて来た人たちの営みから、人間同士の温かな「つながり」について学ぶことができればと思います。
by oji-church | 2009-07-08 16:32 | 牧師からのメッセ-ジ
「『信』を置くということ」

★6月18日の朝日新聞のオピニオン欄に水俣病患者の緒方正人さんの言葉が載りました。与党政府が水俣病の未認定患者救済策で、患者に一時金を支払って問題の終結を計る特別措置法案を、今の国会に提出していることに対する意見です。その中で緒方さんのこんな言葉が深く印象に残りました。
★「患者には三つの誇れることがある。病に苦しみながらも魚や海を恨まなかったこと。胎児性患者が生まれようとも、子どもを選ばず産み続けたこと。そしてチッソの社員や公務員を傷つけなかったことだ。人々は不知火海を大切にし、『信』を置いて生きてきた。かつて水銀という毒を流され、傷ついた海は、埋め立てで藻場は消え、魚は減り続ける。そんな海の再生に、国や県やチッソは力を注いだらどうか」。
★キリスト教において信仰とは、イエス・キリストという一人の人の生き様との出会いによってもたらされるものに他なりません。そういう意味で信仰とは、「わたしの信仰」というように、自分の持ちもの、あるいは所有物のようには語ることのできないものなのです。「わたしの信仰」「わたしの誠実さ」「わたしの謙虚さ」等々、そんなちっぽけな「わたしの持ちもの」なんて、吹き飛んでしまうような出会い。それがイエス・キリストとの出会いであり、そのイエス・キリストとの出会いによってもたらされるのが「信仰」というものなのです。
★「人々は不知火海を大切にし、『信』を置いて生きてきた」。「わたしの信仰」といったちっぽけな自分の所有物ではなくて、苦しみをもたらした海や魚を恨まず、命を選ばず、敵の命も傷つけることはしない。そういう大きな大きな命というもの全体に対する「信」というもの。イエス様が最初に人々に伝えた信仰とは、もともとそういうものだったのではないでしょうか。
by oji-church | 2009-07-02 09:35 | 牧師からのメッセ-ジ