日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「聖霊とはオナラではないか?」

★作家の灰谷健次郎さんは、若い頃小学校の教員をする中、子どもたちと共に詩集を編み大変話題になりました。しかしその中にいわゆる「シモ」の事を題材とした詩が多かったことから非難されることも多かったようです。
★灰谷さんが学校でしょんぼりしていると女の子が寄って来て、理由を聞くと彼女は「それじゃあ、わたしがもっといい詩をかいたげる」と言って、翌日こんな詩を書いてきたといいます。

おなら 三年 光山良子

わたしが おとなだったら
かんごふさんになって
おならばっかり こきます
びょうにんを しんさつしているときも
おならをこきます
かんじゃさんが がまんしてたら
もっと もっと
おならをこきます
けっこんしても おならをこきます
わたしのうんだ子どもたちにも
おならをこかします
うれしいときも
おならをこきます
おめでたいときも
おならをこいて おいわいします
わたしがいいことをして しぬと
みんな おはかにきて
ほめてくれるでしょう
そのときも
おならをこいて
みんなをおどかします
かみさまにおこられても
ぷーぷーとおならをこいて
ごまかしておきます
(灰谷健次郎『せんせいけらいになれ』より)

★灰谷さんはこう書いています。「おならのわたしがいいます。おならは心です。人間のあたたかい心です。それをしっていてくれるのは、子どもです」。
★目に見えないおならは、あたたかい心でひとを励ましてくれる力です。それは、聖書で言われるところの「聖霊」の働きとまったく同じではありませんか。以前この欄で「霊は『気持ち』」と書きましたが、灰谷さんと子どもたちはとっくの昔にもっと上を行っていたのでした。「霊はオナラ」。「聖霊は神さまのオナラ」だったのです。
by oji-church | 2009-06-26 13:33 | 牧師からのメッセ-ジ

メダカの教会

教会の玄関脇の植え込みに、甕を買ってきて、メダカを飼うことになりました。メダカはシャイなので、カメラを向けると、みんな潜って見えなくなってしまいました。
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by oji-church | 2009-06-16 13:50 | みちばたの教会
「孤独の力」

★詩人の谷川俊太郎さんのデビュー作となった「二十億光年の孤独」という詩があります。

二十億光年の孤独

人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする

火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕はしらない
(或はネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ

万有引力とは
ひき合う孤独の力である

宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う

宇宙はどんどん膨んでゆく
それゆえみんなは不安である

二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした

★「万有引力とは、ひき合う孤独の力である」という言葉に心引かれます。この宇宙に浮かぶ星々はどれも皆引力を持っていて、周りのものを自分に引き寄せようとしています。地球にも引力があって、そのお陰でわたしたちは地球上で立ったり座ったり、寝ころんだり、歩いたり走ったりできます。
★わたしたち一人一人の人間もこの宇宙に存在しているものです。ならば人間もまた、お互いに引き寄せ合う力を持っているのではないだろうか。人間一人一人、だれもが心のどこかに孤独やさびしさを抱えているものです。どんなにおもしろおかしく生きているように見える人でも、必ず心のどこかにさびしさや孤独な気持ちを抱えています。孤独やさびしさを抱えているからこそ、独りよがりでなく、お互いにお互いを引き寄せ合う力を生み出すのです。孤独やさびしさを見つめることは、わたしたちが共に生きようとする力の源だとも言えるでしょう。
by oji-church | 2009-06-16 13:23 | 牧師からのメッセ-ジ
「霊とは気持ち?」

★もともと聖書の中の抽象的な話は苦手でした。具体的なイエスの働き、パウロの働き、旧約聖書でもイスラエルの人々の具体的な歴史的出来事などの方が触れやすいのです。でも、そうやって実際に聖書に具体的に語られているイエスの働きや、たとえ話、あるいは旧約聖書に語られている出来事、あるいはパウロの働きなどを読んでいく内に、具体的な、目に見える出来事の奥底に、目に見えない何かが横たわっていることを感じるようになってきました。それは、聖書に登場する人物一人一人の「気持ち」。それは具体的に目に見るものではありません。
★いくら具体的な、分かりやすい場面を取り上げてみても、その奥底の目に見えない部分に秘められている、人間一人ひとりの気持ちを汲み取ることができなければ、結局聖書の文字面を追っているだけのことになってしまいます。聖書の文字面の奥底に横たわっている、人間一人一人の「気持ち」を汲み取ることが、聖書を読む上で実はとっても大事なことなのです。
★聖書に語られている「霊」というのは、そういう目に見えない「気持ち」のようなものなのではないかと思うようになりました。一人ひとりの人間の中に「霊」が宿っているというのは、つまり、一人ひとり誰もが、それぞれの「気持ち」を抱えながら日々を生きているということです。神様もやはり「気持ち」を持っている。神様の気持ち、それが「聖なる霊」つまり「聖霊」というものです。
by oji-church | 2009-06-12 09:16 | 牧師からのメッセ-ジ
「生きている者の神」(Ⅲ)

《「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」》(マルコによる福音書12章26~27節)

★神様にとって死んでいる、生きているの違いは何もない。そのような神のまなざしから見直したとき、先のような一人の女性の命は、死んだ後に「天使のようなもの」になるばかりでなく、本来、生きている間から「天使のよう」に、大切にされるべきではないか、という問いかけが響いてきます。
★本来神様にとって、生きている、死んでいるの違いがないとするなら、死んだ人間が「天使のよう」になるのだとすれば、生きている人間も同じように「天使のよう」であるべきなのです。
★「天使のよう」とはつまり、天使のように「神様に愛される者」として尊重される、大切にされる、そして自由に解放されるということです。人が、別の人間の血筋や家系の存続のために利用されるようなことがあってはならないということです。
★死んだ人が「天使のよう」に尊重され、愛され、解放されるのであれば、生きている人もまた「天使のよう」に尊重され、愛され、解放されるべきであるということ。そういうことをイエス様は「神は死んだものの神ではなく、生きている者の神なのだ」という言葉で言い表しているのです。
by oji-church | 2009-06-06 10:11 | 牧師からのメッセ-ジ