日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「生きている者の神」(Ⅱ)

《「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」》(マルコによる福音書12章26~27節)

★神様は「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神『である』」と語ります。アブラハム、イサク、ヤコブというのは、イエス様にとってもモーセにとってさえも遠い昔の既にこの世を去った人々です。ですが、既にこの世を去った人に対しても、神様はそれらの人々の神「である」と、現在形で語るのです。
★つまり、人間の側からは死んだように思える人々でも、神様の側から見たら決して死んではいない、今もなお大切に大切に、愛を注ぎ続けるべき生きている存在なのです。言い換えれば、神様にとっては死んだ人間など一人もいない、全ての人間が今なお生き続けているということでしょうか。
★わたしたち人間の側には、すでに死んでしまった人と、まだ生きている人との区別がありますが、神様にとっては、死んでいる、生きているの違いはなく、すべてが神様の前で生き続けている存在なのです。だからこそ「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」なのです。既に死んだ人もひっくるめて、神様は、すべて「生きている者の神」だということです。(つづく)
by oji-church | 2009-05-29 15:36 | 牧師からのメッセ-ジ
「生きている者の神」(Ⅰ)

死者の中から復活するときには、、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ》(マルコによる福音書12章25節)

★この言葉を元のギリシア語に忠実に訳してみると「死者の中からよみがえらされる時には、めとることも『嫁がされる』こともなく、天使のようになるのだ」となります。実際この女性は、自分の意志で「嫁いだ」のではなく「嫁がされた」のです。そのようなこの女性の無念にイエス様は思いを寄せて語っているのです。つまり「死んだ後どうなるか」という議論のためにイエス様はこの言葉を語っているのではなく、今ここに生きている一人の人間として、一人の女性の苦渋に満ちた生涯に思いを寄せ、敬意を払い、その命の歩みを尊重するために、このように語っているのです。
★そのように考えれば、この後のイエス様の謎めいた言葉の意味も解けてきます。「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」
★聖書では、神様は「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と語りながらモーセの前に現れます。「アブラハム、イサク、ヤコブの神」、人間一般まとめての神様ではなく「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と、それぞれ一人ひとりの人間に相対して向き合う神様として現れるのだということです。男性の家の血筋を守るための神様ではなく、この世にあってその意志も感情も無視されてしまうような、一人の女性を、精一杯大切にしようと向き合う神様として、です。(つづく)
by oji-church | 2009-05-21 15:50 | 牧師からのメッセ-ジ
 「やさしい感情」

★「人間は、貧しさや苦しさやさびしさに直面したとき、とても暗くなったり、意地悪になることがあります。でも、人間は、そこからやさしい感情をくみだしてくることもできるのです。この世の中で、もっとも深いどん底といえる場所で生きていたお女郎さんは、わたしに、この感情が人間にとってどんなに大切で、また強いものであるかを教えてくれたと言えます。このやさしい感情は、どんな人も持っているものです。しかしまた、この感情は、もっともつらい人生をしっかりと生きぬいている人ほど、豊かに持っていると言えます。それは悲しみを乗り越え、人と人の裂け目を乗り越えていく力であるともいえるのです」。(高史明(コ・サミョン)『生きることの意味』ちくま文庫より)
★教会で語られる言葉が、口先だけの「観念」になってしまわないように、どうしたらいいのか、ということを最近つとに考えさせられます。その中で、聖書の中で出会うイエス様の周囲の状況は、わたしたちの想像以上に、具体的な貧しさの苦悩に満ちた場所だったことを意識しながら聖書を読むべきと思うようになりました。
★高史明さんは1932年生まれ。下関の在日朝鮮人の、母のいない父一人、兄弟二人の極貧の家庭で育たれました。その貧しさの中で本当に厳しい試練に数々遭うのですが、そうした経験が、しかしなお情感溢れる、みずみずしい筆致で語られるのです。イエス様がわたしたちに告げようとしているのは、このようなことなのかもしれないと思わされます。
★社会全体が貧困の影に震えているような今の時代、あらためて高さんの言われる「やさしい感情」を振り返る必要があるように思います。わたしは高校生の時に初めて読みました。若い人が自分の出発点とするに充分に足る深みを持った本です。ぜひご一読を。
by oji-church | 2009-05-13 10:23 | 牧師からのメッセ-ジ
《二人、または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである》(マタイによる福音書18章20節)
★ここに「イエスが共にいる」と言われている人間の集まりには、場所がどこであるか、集まるのはどのような人かという条件は一切語られていません。この言葉の強調点は、「二人、または三人」という人の集まりの「小ささ」、また、それでもなお「わたしの名によって集まる」という、イエスへの思いにあるのでしょう。
★作家の小田実さんは晩年「民主主義」の原語に当たるギリシア語の「デモス・クラトス」という言葉を「小さな人間の力」と訳すようになったと言います。さらに亡くなる直前に、「小さな人間」の極致は「高齢者と赤ん坊」だと、ある人に手紙で書き送っていたそうです。
★確かに、高齢者と赤ん坊という存在は、爆撃を受ければ、爆弾を落とされれば、ひとたまりもない存在です。しかし考えてみれば、わたしたちの誰もが、かつて赤ん坊であり、そして齢を重ねてゆく存在なのです。わたしたちは本当は誰もが「小さな人間」であった。そのことを繰り返し繰り返し、振り返り、思い返し、立ち返ってゆくことが、わたしたちに求められていることなのでしょう。
★そうして、教会という建物や組織の枠を越えて、小さな人間同士として、出会う相手とお互いの痛むところ、悩むところを響き合わせながら共に、その痛み悩みからの解放を願い求めてゆく時、必ず主イエスはわたしたちと共におられる。それが教会という場の本来あるべき姿なのでしょう。
★その小さな人間の集まりこそが、実は本当にこの世界を、命の輝く場へと変えてゆく、大きな力を持つのだと思います。
by oji-church | 2009-05-07 09:30 | 牧師からのメッセ-ジ