日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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<   2009年 04月 ( 7 )   > この月の画像一覧

「チンドン屋さんとしての復活」

★子どもの頃チンドン屋さんが大好きでした。きらびやかな服や見たこともない楽器が珍しくて、ピーヒャラドンドンの音が遠くから聞こえてくると、御飯の最中でも飛び出して行きました。
★そんなわたしを心配した祖母がある時こんなことを言ったのです。「チンドン屋さんについていくと迷子になって、そういう子どもはチンドン屋さんにされてしまうよ」。それからチンドン屋さんがすごく恐い存在になってしまいました。以来ピーヒャラドンドンが遠くから聞こえてくると走って塀の裏に隠れ、隙間からヒヤヒヤしながらのぞき見ていた。ついていくことが出来ない自分が心密かな負い目となりました。
★「イエスは弟子たちに言われた。『あなたがたは皆わたしにつまずく。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く』」。(マルコ14:27~28)。
★ペトロを始め、弟子たちの誰一人として、十字架へ引かれていくイエスについて行くことはできませんでした。女性らも空の墓に恐れおののいて、逃げていってしまった。それでもイエスは復活し、ガリラヤで待っていると言う。
★この時から、むしろ弟子たちの方がチンドン屋となっていったのでしょう。弟子たちはイエスにどこまでもついて行くことはできなかったけれども、イエスはその弟子たちにどこまでもついて行くのです。どこまでもチンドン屋さんについて行く子どもとして、イエスは復活したのではないかと思うのです。
by oji-church | 2009-04-22 13:11 | 牧師からのメッセ-ジ
「分かち合いの場にこそイエスは復活される」

★わたしたちの教会の所属する日本基督教団は都市部と地方の教会間の財政格差をなくすために「教区活動連帯金」という制度を持ってきました。これにより、財政的に厳しい教区でも互助制度を置いて小教会・伝道所を支え、それぞれ豊かで多様な宣教・伝道の実りがもたらされてきました。
★昨年、東京教区は「教区間の信頼関係がない」との理由から活動連帯金の拠出を留保すると表明しました。地方教区の互助は危機に瀕することになります。
★この問題のために北支区で2月に九州教区の牧師さんをお呼びして学習会を持った際、牧師さんは、山に囲まれ、あるいは離島の教会、火山噴火の被災地の教会が、様々な困難を抱えながらも地域の人たちに精一杯仕える様子を語りながら、こんなことを語っておられました。
★「貧しいけれど、本当に豊かな状況が九州教区じゅうに散らばっていて、それを本当に分かち合いながらやってきているのが、九州教区の現実なのです。できればそういう九州教区の豊かさを、全国の教会の人たちとも分かち合いたいと思っているのですが、それを伝える術を断たれている現実があります」。
★復活後にイエスが行かれる「ガリラヤ」とは、このように「貧しいけれど、分かち合う豊かさがある」場所だったのでしょう。東京という場所で、手にした富を守ることに汲々としているなら、復活のイエスに出会うことは出来ないでしょう。東京に生きるわたしたちも復活のイエスに出会いたいものです。そのためには、やはり「分かち合う」ことが何よりも俟(ま)たれると思います。
by oji-church | 2009-04-17 17:03 | 牧師からのメッセ-ジ

花の洪水

今週、教会近くを流れる音無川(石神井川)の桜が満開になりました。火曜日に行った時にカメラを忘れ、水曜日に行ってみると、もう散り始めています。枝々を飾る花々と、散る花びら、川面を埋める花びらと、さながら「花の洪水」といった風情です。
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by oji-church | 2009-04-09 16:05 | みちばたの教会
「剣と灯火」

《わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに》(マタイ10:34~35)


★イエスの周りには、罪人と呼ばれる人々、病気やしょうがいを負う人々が集まっていた。彼/彼女らは、家族や故郷の交わりから追放されて生きていたのである。しかしイエスはそうした人々のもとにこそ、神様は「天のお父さん」として訪れるのだと説き、やがて、彼/彼女らこそが社会の交わりの中で生き生きと生きられる「神の国」が来るようにと願いつつ働いた。
★そういうイエスの活動は、常識的な家族の中で生きる人々に、「家族」とは何かと厳しく問いかけるものだった。「わたしと一緒に活動しようと思うのなら、家族から捨てられたようにしか生きられない人々との交わりに自分の身をさらさならない」と呼びかけたわけだから、それは当然常識的な家族の在り方からはみ出るものであり、確かに「家族の間に剣をもたらす」ものに違なかった。

《彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける》(マタイ12:19~21)

★しかし同時にイエスは、人間が決して壊されてしまわないようにと臨む人だった。やはり究極のところで、人の生命を何よりも尊ぶ人であった。
★人間は、人間の固まりや、枠に収まらずとも、一人一人がそのように愛されて、守られて然るべき存在なのだということを、イエスの剣と灯火とが告げている。一人一人に呼びかけるイエス様の厳しさ、その剣と、一人一人へと注ぐイエスの優しさ、その灯火とを、共ならがらに心に抱きしめて歩んでゆくものでありたい。
by oji-church | 2009-04-08 12:58 | 牧師からのメッセ-ジ
復活節第1主日
イースターこどもとおとなの合同礼拝
4月12日(日)午前10時30分
説教「いつまでも、どこまでも」
(マルコによる福音書16章1~8節)
大久保正禎牧師

【讃美歌】26.575.325.484.419.65-1.
こども34-1
【招詞】詩編68編20~21節
【交読詩編】リタニーを行います。
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by oji-church | 2009-04-08 12:58 | 全体のお知らせ

チューリップ

昨年、教会のTさんが植えてくださったチューリップの球根が、つぎつぎと花咲かせています。球根ってスゴイですね。何の肥料もやっていないのですが。
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by oji-church | 2009-04-08 12:02 | みちばたの教会
「夢の見方」

《ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 》(マタイによる福音書17章4節)

★短いペトロの台詞の中に「ここ」という言葉が二度出てきます。それらは、〈イエスとモーセとエリヤと自分〉という狭いサークルを区切る「仕切り」に他なりません。ペトロたちが山の上で見た夢は、見た目美しくはあっても、その内実は狭苦しいエゴイズムを抜け出していないのです。
★「1963年のうだるような夏の昼下がり、われわれは首府ワシントンD.C.に集まり、多くのことをこの国にたいして話しかけました。日の沈みかけたころ、この国に向かって私の抱いていた夢について話したのです。そして今日は、みなさま方に告白しなければならないのですが、夢を語ったあの後いくばくも経たぬ間に、私はそれらの夢が悪夢へと変わり果ててゆくのをこの目で見ました」(M.L.キング牧師による1968年アラバマでのクリスマス説教より)。
★ワシントン大行進での「わたしには夢がある」という有名な演説のわずか4週間後、アラバマ州バーミンガムで4人の黒人少女らが惨殺されたことをキング牧師は伝えています。しかしなお彼は「私は今なお夢を持ち続ける」と語るのです。
★教えられるのは、夢とは個人や狭いサークルで見るものではないということ。それはエゴイズムの別名に他なりません。夢とは、無惨な現実を直視しつつ、「さてわたしたちはどのような夢を描くべきなのか」と、隣人と共にじっくりと時間を掛けて考えてゆくものなのです。そのような夢こそが、やがて現実に抗する力を発揮するのでしょう。
by oji-church | 2009-04-01 09:19 | 牧師からのメッセ-ジ