日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「子どもらを解放せよ」

《13イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。14しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。15はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」16そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。》(マルコによる福音書10章15節)
★14節の「子供たちをわたしのところに~」は直訳すると「子どもたちがわたしのところに来るままに放しなさい」という感じでしょうか。「~ままにする=解放する」という言葉が使われています。同じ言葉はマルコ13章6節のベタニアで女性がイエスに香油を注いだ場面でも使われています。
★当時、「大人の男」だけが一人前の人間と見なされ、社会構成から宗教的救いに至るまで、女性・子どもは人間の数に数えられず排除されていました。この排除された子ども・女性の両者に対して、イエスは「解放せよ」と宣言したのです。
★更にイエスは、「神の国は、このような者たち(つまり子ども・女性)のものだ」と言い放ちました。当時「大人の男」こそが入れる場所と考えられてた「神の国」を、すっかり引っ繰り返す、過激な発言です。その後の「子供のように~」は、「子供が受け入れるように」と解釈されることが多いのですが、こう読んでくると「子供を受け入れるように」と読まなければならないように思えます。「神の国は、子どもや女性のものなのだから、子どもや女性を受け入れることのできないお前ら(弟子たちも含めた)「大人の男」が、入れてもらえるはずがないじゃないか」というイエスの怒りの叫びが聞こえてくるように思えます。
★日本とは、13歳のフィリピン人少女から両親を引き裂く国。この国に対しても、イエスの怒りの叫びは、いままさにこのとき、響いているように思います。
by oji-church | 2009-03-27 09:14 | 牧師からのメッセ-ジ
「『姦通の女』を読み返してみました(Ⅲ)」

★(承前)怒りと悔しさに打ち震え、「罪ある男」であるこのわたしに石を投げろと、沈黙の内に訴えるイエス様の気迫に押されて、年長者から、一人また一人と立ち去って最後にイエスだけが残り、真ん中にあの女性が残った。イエスは身を起こして彼女に言います。「婦人よ、彼らはどこにいるのか。誰もあなたを罪としなかったのか」。女性は答えた。「主よ、誰も」。するとイエスは言った。「わたしもあなたを罪に定めない」。
★イエスは「罪を犯したことのない者が、彼女に石を投げなさい」と言い、そして最後に「わたしもあなたを罪に定めない」「わたしもあなたに石を投げない」と言うわけです。つまりイエスは「自分も『罪を犯したことがない』などとはいえない人間なのだ」と、暗黙の内に彼女に告白しているのです。実際にそう思っていたからこそ、イエスは律法学者やファリサイ派の人々の前に、この女性と共に地面にしゃがみ込んで「わたしにも石を投げろ」と訴えたのですから。
★この場面は古い写本では省かれていました。その理由はここにあります。この場面は、あまりにも大胆にイエスが自分の罪を告白しているように読めるのです。それは過激過ぎる。しかしそのような大胆さを持って、この一人の女性と生死を共にしようとされたイエス様の熱く激しい面影は、決して打ち消すことができなかったのでしょう。ヨハネ福音書が書かれてからおよそ400年を経て、再びここに載せられるようになったのです。ただし最後に「これからは、もう罪を犯してはならない」という一言を付け加えて。これは、後の時代に付け加えられた言葉です。イエスは彼女が「罪を犯した」などとは思っていなかった。ただひたすらに大胆に自分自身の罪を思い、彼女と生死を共にしようとしたのです。
by oji-church | 2009-03-21 12:19 | 牧師からのメッセ-ジ
「『姦通の女』を読み返してみました(Ⅱ)」

★(承前)こう読んでみるとこの律法学者やファリサイ派の人々の訴えがいかに理不尽なものであったかが分かる。この理不尽極まりない訴えにイエスはどう応えたか。「イエスはかがみ込み、指で地面に何かを書き始められた」。
★イエスが黙ってしゃがみ込んだのは、怒りと悔しさに打ち震えてのことだったのじゃないかと思えてきたのです。思い返せばイエス自身もそのように女性を理不尽に扱う社会の枠組みの中に生きる「男」です。イエスは「男」である自分という存在に対しても、言葉にならない怒りや悔しさを感じたのではないか。
★「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。そう言ってから、またしゃがみ込み、地面に何かを書き始める。「罪を犯したことのない者が、この女にに石を投げろ」と言って、しゃがみ込んだイエス。
★この再びしゃがみ込んだイエスの姿には実はこんな意味があったのじゃないかと想像するのです。「俺にも石を投げろ」。自分こそがこの女性を理不尽な運命に追いやろうとする、断罪されるべき「男」ではないかと。(つづく)
by oji-church | 2009-03-13 14:03 | 牧師からのメッセ-ジ
「『姦通の女』を読み返してみました(Ⅰ)」

《そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。》(ヨハネ8:2~8)

★この場面を改めてギリシア語原文から読み返してみて、律法学者やファリサイ派の台詞として「この女は姦通をしているときに捕まりました」と訳されている箇所の「姦通」という言葉は、もともと受け身で書かれていることに気付きました。つまり原文に忠実に訳せば、「この女は、姦淫を『犯されている』現場で捕まりました」となるのです。
★そう読めば、彼女は「自ら姦通を犯したよくない女性」ではなく、被害者であることが分かります。どうしてその通りに訳さずに、彼女自らが「姦通をした」と訳してしまうのか。その裏には、このように曲がりなりにも律法学者やファリサイ派の人々に訴えられているのだから、彼女にも落ち度があったにちがいないという思いこみがあるのだと思います。
★でも、旧約聖書の律法の掟を読んでみると、律法の掟では、女性の側に落ち度がなくても女性が訴えられるケースがしばしばあり得るのです。もう一つには、女とは所詮そのように男をたぶらかす汚れた存在なのだという、やはり思いこみがあるのではないでしょうか。(つづく)
by oji-church | 2009-03-04 14:00 | 牧師からのメッセ-ジ