日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


by oji-church
プロフィールを見る
画像一覧
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28

<   2009年 02月 ( 4 )   > この月の画像一覧

「修行をしてもいい」

★曹洞宗の開祖である道元の生涯を描いた『禅』という映画を見に出かけました。道元の教えは、人並み外れた華々しい「悟り」を目指すものではなく、ひたすらに坐禅を組み、朝目を覚まし食事をし、日々の務めをこなして夜床に就く。当たり前の生活の中で修行を積み重ねていくことそのこと自体が「悟り」なのだと教えるもののようです。
★元来わたしは、修行というものを誤解していた面がありました。修行というと、苦行を重ねて自分独自の「悟りの境地」を開くものと考えていました。そんなのは人より一段上の「悟りの境地」から人を見くだすためのものではないか。結局エゴイズムの表れではないか。キリスト教には修行の無いことに納得したつもりでいました。しかし道元の教える修行の生活は、端々で、自分以外の人への思い遣りに裏付けられたものなのです。
★だんだんとキリスト教にも修行があってもいいのじゃないかという気がしてきました。聖書に書かれた律法の掟は、元来、弱く小さくされた人間の立場に心寄せて、その人を守り救う神様がおられるのだということを心に刻み、その神様にしっかりと向き合ってゆくためのものでした。
★キリスト教にとっての修行とは、この弱く小さくされた人間に心寄せる神様に、わたしたちも日々の生活の中で従っていこうとすること。日常生活の様々な場面でわたしたちが出くわす、一人一人の人間の小ささ、弱さとを、神様と共に受けとめ、見つめ、共に担い合っていくことが、わたしたちにとって必要な修行なのではないかと考えるのです。
by oji-church | 2009-02-26 09:53 | 牧師からのメッセ-ジ
「ひとの〈溜め〉になる」

★一年前の雑誌『世界』(08・2月号)に、この間日比谷での「派遣村」を主導した湯浅誠さんの対談記事(「反・貧困を軸として運動を」)が載っていました。「夫のDVから逃げて母子家庭になって、パートで働いていたら不当な解雇にあって、生活できなくなったから福祉事務所に行ったら追い返されて、生活出来ないから借金を背負って多重債務になって、ストレスがたまって子どもに手を挙げて児童虐待……というケースは、実はそんなに珍しくない。むしろ、そうやって複数の問題が一気に襲いかかってくるのが貧困問題の特徴なんです。貯金や人間関係という〈溜め〉のある人は、失業してから家を失うまでの時間を持てるけれども、貧困状態にある人は〈溜め〉がないから、一つのトラブルが解決される前に、二つ目、三つ目のトラブルが誘発されてしまう」。
★格差や貧困の問題に対してしばしば語られる「自己責任論」は、ここで言われている〈溜め〉を持つ人が、〈溜め〉を奪われた人に対して語るものです。〈溜め〉は表面からは見えません。表面から見えない、一人ひとりの人の生活の背景までを思い描いてみないと、この問題に向き合ったことになりません。
★福音書の中で、イエスが貧困はじめ社会の諸矛盾に向き合っている姿に出くわします。巨大な社会矛盾を前にしてイエス一人に出来たことは小さかったでしょう。でもまさにイエスは、表面からは見えない人の〈溜め〉の部分に分け入って、その人の人間としての尊厳を支え、救う働きをしたのです。
★深刻さを増すこの問題に、教会が出来ることは小さいかもしれません。けれどもイエスにならいつつ、困難の内にある人の〈溜め〉のほんの一端にでも、その気があれば教会はなれるはずだと思うのですが、どうでしょうか。
by oji-church | 2009-02-20 08:40 | 牧師からのメッセ-ジ
「真っ正面から人と向き合うということⅡ」

《従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。》(ローマの信徒への手紙6章12~14節)

★結局、神様は誰をも道具としては見なさず掛け替えのない大切な存在として見つめるのだということです。その神様に、今ここにある自分の体を任せていくということです。
★わたしのからだが今ここにあるということは、わたしが今ここに生きて、存在しているということです。からだが大事だというのは、わたしが今ここに生きて存在していることは、実はとっても深い意味のあることなのだということです。
★あなたが今ここに生きているということ、あなたが今ここに存在しているということを、義のために、つまり、人と真っ正面から向き合っていくことのために、神様に任せていきなさいということ、それは、あなたが今ここに生きていること、あなたが今ここに存在していることを、きっと神様はそのままに、意味あるものとして用いてくださるはずだ、という希望を表しています。
★わたしが今ここに生きていること、わたしが今ここに存在していることを、そのままに、「あなたが、今ここに生きていてくれて、ありがとう。あなたが、今ここに存在していてくれて、ありがとう」と喜んでくれる人が、かならずいるのだよ。そういう結びつきに、神様は必ずわたしたちを導いてくれるのだよという希望を表しているのです。
by oji-church | 2009-02-13 15:43 | 牧師からのメッセ-ジ
 「真っ正面から人と向き合うということ」

《従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。》(ローマの信徒への手紙6章12~14節)

★最後のところで「神に献げなさい」と訳されているのは、その前のところにで「罪に任せてはなりません」と訳されている「任せる」というのと同じ言葉です。ですから「神に任せなさい」と訳した方がいいと思います。「義」とは「真っ正面から向き合うこと」。
★真っ正面から人と向き合うための道具、とは不思議な言い方です。真っ正面から人と向き合うとは、つまり決して人を何かのための道具としては見ない。その人そのものが何よりもかけがえない存在なのだと思う、という意味でしょう。
★1月23日の朝日新聞の天声人語に、昭和の初めに活躍した渡辺白泉という人のこんな俳句が載っていました。「夏の海水兵ひとり紛失す」。「船から落ちるかして、水兵が行方不明になったのだろう。それを『紛失』と言い表した」。つまり戦争が始まって「人が部品か工具のように扱われる様」を歌ったとのことです。
★現在もまさに、景気の動向の如何によって、人が使い捨てにされる時代を迎えています。そんな中で、自分自身の体を、真っ正面から人と向き合うための道具として神様に任せてゆくことを、聖書は求めているのです。
by oji-church | 2009-02-05 10:34 | 牧師からのメッセ-ジ