日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「ひとを使い捨てにする世の中を変える意志の問題」

★先週は米国で史上初となる有色人種の大統領が就任しました。確かに画期的なことではありますが、日本のマスコミがまるで自分の国のことででもあるかのようにこぞって言祝いでいる様子には、いささか疑問を感じざるをえませんでした。
★確かにグローバリズムが世を覆うなか、米国の動向は世界に強い影響を及ぼし、日本もその例外ではない。というより日本の政治はピッタリ米国に寄り添ってきたのだから、米国の動向に敏感に反応したくなるのも仕方ないかも知れません。
★しかしその結果、米国発の経済破綻の余波をもろに受け、多くの非正規雇用の人たちが文字通り生活を奪われている状況です。これは米国や財界のいいなりに派遣雇用という人間の使い捨てシステムを拡充してきた当然の帰結です。
★新大統領は就任早々、イスラエルのガザへの攻撃を支持する声明を発表しています。米国の大統領が変わっても人間を使い捨てにするシステムがにわかに変わるとは言えません。米国頼みではなく、わたしたち一人ひとりの「変えていく意志」、そして何をどう変えるのか、原点に帰った思考が問題となるのでしょう。(おおくぼ)
by oji-church | 2009-01-29 09:43 | 牧師からのメッセ-ジ
「互いの痛みを受けとめ合う関係を紡ぐ」

★明けましておめでとうございます。昨年の世相を表す漢字は、「変」という字でした。職を求める人が文字通り路頭に迷わされる「大変」となりました。単に非正規雇用の人たちばかりでなく、この社会に生きるわたしたち皆にとって、2009年をそこからの本気の再出発の年としなければならないように思います。
★暮れの31日の朝日新聞に、社会学者の見田宗介さんが、1968年に起きた永山則夫による連続射殺事件と、6月に秋葉原で起きた連続殺傷事件とを対照しながら語っていた論考は、興味深いものでした。
★永山事件とくらべて秋葉原の事件が示しているのは、今の時代の「空気の薄さ」だと見田さんは言います。永山が、中卒、貧困家庭出身、青森弁などに対する世間の人々の「まなざし」に苛まれて、事件に至ったのに対して、秋葉原事件は反対に自分が誰からも必要とされていないと感じさせられてしまう、「まなざし」の「不在」に耐えきれずに事件に至ったと言います。また、秋葉原事件の犯人がネットの中で、自分の敵と考えていたのが、彼が「リア充」と呼ぶ人々、彼にとって「リアリティーが充実している」と見える人たちだったということも知りました。
★日々自分が生きてあることの現実感の不在。確かにバブル最盛期であったわたしの学生時代、そういうものをわたし自身も感じ取っていました。それで教会に通うようになり、牧師にまでなったようなものです。しかし現在の教会が、果たしてそのような「現実感」(リアリティー)を提供できる場であるかどうか、考え込みます。
★見田さんは秋葉原事件と若者のリストカットとを結び合わせていましたが、「生きている現実感」とは、ある意味で「痛み」です。2009年を新しい出発とするためには、誰もが、自分の痛みばかりでなく「お互い」の具体的な「痛み」をこそ受けとめ合う関係を、少しずつでも紡いでいく必要があるのではないか、という予感がするのですが、どうでしょうか。
by oji-church | 2009-01-06 11:16 | 牧師からのメッセ-ジ
「海底の盲目のカメの祈り」

★2008年という年は、アメリカの投機資本主義(日本の政府や企業もそれを一緒に踊ろうとしていたのですが)の挫折のあおりを受けて、非正規雇用の人々の大量解雇という、あまりにも手ひどい結果に終わろうとしています。「米百俵」などという美談を持ち出しての「構造改革」の名の下に、いったい何がなされたのか。つまりはこうして、一部の人々の生き残りのために、簡単に人の首を切ることができる制度づくりだったではないか。人間の命というものを何だと思っているのか。怒りを禁じ得ません。しかしわたしたち自身も、災難が自分の身に降りかかりさえしなければ、他人の命など、通り過ぎて顧みない風景の一部としてしまう。そんな冷淡さを、分かち持ってもいるのだと思います。
★仏教の経典の中にこんなたとえ話があります。大海の底に一匹の盲目のカメがいて、百年に一度だけ、海面に浮いてくることができる。一方その大海原には、たった一本、浮木が漂流していて、先のカメが、この浮木に当たった時にだけ、人間に生まれることができるのだという話。そんなことはほとんどまったく不可能としか思えません。百年に一度のチャンスを、何億、何兆回と繰り返して、その果てに盲目のカメが浮木にたどり着いたとき、一人の人間が生まれるというのです。海底の盲目のカメは、そんな何百億、何千億、何兆年の時間を、人間として生まれることを願い続けているのだというお話。
★そんな命への願いの重さを、わたしたちはどれだけ、心に刻んでいるでしょうか。この命の重さを思うときにこそ、わたしたちは、自分自身と他者とを、かけがえのない存在として尊重してゆくことができるのでしょう。聖書には「自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい」という言葉があります。普段、クリスチャンは当たり前のようにこの言葉の傍らを通り過ぎていきます。けれど、この言葉の背後に、あの海底の盲目のカメの祈りが響いていることを、ぜひ心に刻んでいただきたいと思うのです。
by oji-church | 2009-01-06 11:14 | 牧師からのメッセ-ジ