日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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「ひとは棄つれど」

《目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。》(コリントの信徒への手紙Ⅰ第12章21~22節)

★もしかしたらここで言われている目とは、「見えない目」のことなのではないか。足とは「歩けない足」のことなのではないか。「見えない目」に向かって、それでもなお「お前は要らない」とは言わず、「歩けない足」に向かって、それでもなお「お前たちは要らない」とは言わない。それは「愛する気持ち」です。この「愛する気持ち」が芽生えるためには、他よりも弱く見える部分が必要なのです。
★もはや目も見えず、歩くことも、体を動かすこともできない、そういう「弱く見える部分」を「要らない」とは言わず、大切に大切に、そこに自分自身を結び合わせていく。そのようにして、もはや目も見えず、体を動かすことも出来ないような「弱く見える部分」によって、人間同士が結び合わせられ、つなぎ合わせられていく時、その人間同士の結び合い、つなぎ合いが、生きたキリストの体となるのだ、と聖書は語るのです。そのようにして、キリストは人を愛し、この世を愛し、人々と共に、この世と共に、今も共に生きておられるのだと。
★今の時代、人間が役に立つか、立たないか、そんな尺度によって切り捨てられていきます。けれど神様は棄てない。人が棄てるような弱い部分と、神様はずっとずっと共に居られる。「ひとは棄つれど、きみは棄てず」。この言葉をそのままに本気になって受けとめて生きてゆくとき、必ずや、わたしたち人間同士を結び合わせて、神様は、イエス様は、わたしたちを愛して、わたしたちと共に、永遠に共におられるはずです。
by oji-church | 2008-10-30 09:25 | 牧師からのメッセ-ジ

夕陽

先日、暮れ方に外に出てみたら、教会の前の通りの西の先に、ちょうど夕陽が落ちていくところでした。きれいだったので一枚。
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by oji-church | 2008-10-25 10:18 | みちばたの教会
 「上り坂、下り坂」

★10月12日夕刻から13日にかけて、王子教会を会場に北支区青年部主催の「北支区五十三次」というイベントがありました。
★王子教会の所属している日本基督教団東京教区北支区は、北区、練馬区、板橋区、豊島区、文京区、新宿区、中野区の一部にある53の教会が集まっています。これに東海道五十三次を引っかけて、53の教会を自転車で回ろうというのが「北支区五十三次」という企画です。今回、王子教会から出発して十条伝道所、王子北教会、赤羽教会、板橋泉伝道所、志村栄光教会、板橋大山教会という順番で、北区・板橋区それぞれ一部ずつの教会を回りました。
★一日目は王子教会でやっている難民の方々とのアートワークに合流し、総勢20名以上で二枚の絵を描きました。二日目、朝8時に王子教会を出発して午前中一杯をかけて回りました。わたし自身は最近、支区、教区の委員会等の集まりには、電車や車を使わずになるべく自転車を使うようにしています。おかげで当日は総計17キロを走りましたが、息切れすることもなく、ゆっくり回ることができました。
★自転車に乗っていると風や空気を感じることができます。いまの季節は町のそこここで金木犀の香りが頬をなでてゆきます。もう一つ自転車に乗っていて気付くのは、町のそこここの坂(傾斜)です。普段歩いたり車に乗っているだけでは気付かないところに、微妙な坂道があることに気付かされます。そうして町を自転車で駆け抜けていると、上り坂があればその後には必ず下り坂があるということにも気付かされます。まるで人生のようではないですか。

ずらり自転車を並べて走ります。
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by oji-church | 2008-10-21 11:04 | 牧師からのメッセ-ジ
「『どこで、だれと』の問いを胸に」

★『聖餐の豊かさを求めて』という本の出版記念シンポジウムが10月7日にありました。その中で一人の牧師さんのお話が、現代の教会への深い問いかけとして深く印象に残りました。
★その牧師さんの教会は1980年代より「開かれた教会」を目指して歩んできました。何に対して開かれるのか。牧師さんは「この世で最も小さくされた人々」に対して開かれた教会と理解していると言われました。洗礼を受けていない人に開かれた聖餐は、教会に集う全ての人々と共に、この世で最も小さくされた人々に自分自身の命を捧げたイエスの出来事を思い起こす「しるし」としてあるということです。
★かつて戦時下、日本基督教団の教会は、国家の権力にひざまづき、十戒の第一戒(「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」)に従うことができなかった。このことを繰り返さないために教会は、権力や権威から最も遠いところにいる、最も小さくされた人々へと開かれていく、「自立と共生の場」を目指すべきではないか、と。
★いま日本基督教団では、聖餐式は洗礼を受けた信徒のみに限られるという一方的な意見が支配し、上の牧師さんは、洗礼を受けていない人に開かれた聖餐を行ったことが教団の規則違反とされ、免職処分を受けようとしています。しかし大事なのは、聖餐式をどう行うかということよりも、教会がこの世のただ中にあって、だれと共に、どこに立つのか、という問いなのです。この世の最も小さくされた人々と共に生き、そのために命を捧げたイエス様に従う教会は、だれと共に、どこに立つのか、いつもこの問いを胸に刻んでゆくことが大切なことなのでしょう。(おおくぼ)
by oji-church | 2008-10-15 15:05 | 牧師からのメッセ-ジ
「言葉だけではないんだなあ」

★禅についていろいろな本を読んでいる内に、曹洞宗の開祖道元の書いた史上最も難解な書物と言われる『正法眼蔵』に迷い込んでしまい、疲れ果てていたところ、山折哲雄さんという宗教学者の書かれた『早朝坐禅-凛とした生活のすすめ』(祥伝社)という新書版の本を見つけて、比較的軽そうなその題名に惹かれて読んでみました。
★ご自身の主張を「西欧近代科学とは違う、日本伝統文化の特質」という枠に無理にもはめ込まれる所は、あまりイタダケナイ気もしましたが、でもいろいろ示唆に富む本でした。とりわけ禅という「ただ坐る」姿勢に始まって、歩くこと、たたずむこと、食べること、眠ることなど、言葉でない人間の振るまいの意味や意義について、いろいろと考えさせられました。
★牧師の場合、礼拝説教に始まり、聖書研究、出会う方々との対話も、人前でするお祈りも、やはり働きの大半が言葉に関わるものです(ここにこうして文章を書いたりなぞしているのも然り)。それでいつのまにか、何でも言葉次第で、対処したり解決したりできるかのような錯覚に陥ってしまうのです。
★しかしわたしたちにとって、自分自身を見つめ直してみたり、人と共に生きようとしたりということは、決して言葉だけで成り立つものではないんだと改めて思わされます。もちろん言葉はわたしたちが何かを考えたり、伝えあっていく上で、他の何ものにも代え難い大事な道具です。けれどもいま思うのは、自分の身体の感覚や経験からしみ出してくるような言葉を大事にしていきたいなあということです。そんな思いを折に触れて皆さんにお話ししながら、共に分かち合っていければと願うものです。(おおくぼ)
by oji-church | 2008-10-08 14:07 | 牧師からのメッセ-ジ

ゴーヤができました

教会の植え込みに、ゴーヤの苗を買ってきて植えてみました。ほとんど何の手入れも世話もせず、ホッタラカシでしたので、当然、実もならないだろうとアキラメテいました。
ところが先週の日曜日、教会学校の子どもが、「ゴーヤ、ナッテルじゃん」と言って、大きく実ったゴーヤを発見してくれたのです。何の肥料もやっていないのに、やっぱり自然ってスゴイと思いました。(後日、チャンプルーにして食べましたが、あんまりニガくありませんでした。ニガいのがイヤな人にはちょうどイイかも・・・)(おおくぼ)

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by oji-church | 2008-10-01 11:49 | みちばたの教会
「丸ごと愛している」

《イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された》(マルコ6:41)

★この、わずかのパンと魚を手にとって「天を仰いで賛美の祈りを唱える」、空を見あげて、神様に感謝を述べるイエス様の姿を思い描いてほしいのです。空とイエス様との間には、何の線も引っ張られてはいません。神様は何処にも線を引っ張らずにこの世界を創られ、この世界を丸ごと愛しておられる。そのことを、このイエス様の姿は現しているのだと思うのです。イエス様のこの姿に接して、人々は自分たちが神様によって丸ごと愛されていることを知らされて、この神様の愛によってこそ、満腹したのではなかったでしょうか。
★イエス様の時代を較べるなら、わたしたちは十分すぎるほどの豊かさを手にしていると思います。けれどもわたしたちはその豊かさを守ろうとして、人間と人間の間に線を引っ張って、敵と味方とに分けて人を殺してしまう、そんな世界を形づくってしまっています。つまり、どんなに豊かさがあふれかえろうとも、自分は愛されている、無条件で丸ごと愛されていると思うことができなければ、わたしたちはどこまで行っても、富を追い求めつづめ、どこまで行っても、自分の豊かさを守ろうとして、人を殺すような関係を生み出してしまうのです。
★しかし神様は、どこか特定のグループを愛しているのではない。キリスト教という一つの宗教グループだけを愛しておられるのでもない。ある一つの型にはまった信仰の形だけを愛しておられるのでもない。神様は、この世界のどこにも線を引っ張ることなく、この世界を丸ごと、愛してくださっておられる。そのことが、その神様の思いが、この食事の場面のイエス様の姿のうちに、余すところなく示されているのです。(おおくぼ)
by oji-church | 2008-10-01 11:31 | 牧師からのメッセ-ジ