日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


by oji-church
プロフィールを見る
画像一覧
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

<   2008年 09月 ( 3 )   > この月の画像一覧

「疲れ、しゃがむ姿に」

★「老い」というものは、ある意味では「疲れ」として訪れるという見方を鷲田清一『老いの空白』という本で読みました。「疲れ」とは一体何なのか。世の中で自分が確固とし地位を保って生きていくためには、いろいろとアレをしなければならない、こうでなければならない、と社会から求められることがあります。「疲れ」とは、そうして社会から求められることが、思うようにそれができない状態であると、著者は言います。やらなければ一人前と見なされないこと、でもそれが思うように出来ない状態、それが「疲れた」状態だと言うのです。でも本当は、そうして「疲れている」人間の姿というのは、シャカリキになって「自分」にしがみつこうとしていない、開かれた人間の姿なのではないかと、著者は言うのです。
★わたしたちは、一人前の大人というものをあらゆる物差しの基準にして、それでもって人を値踏みし、その物差しの求めに応えることができない「疲れ」というものを、悪いもののようにみなします。「疲れた姿」を悪いもののように見なすならば、それはつまりは「年老いた姿」を悪いものと見なすということでもあるのです。けれども「疲れた姿」は、本当に悪い姿なのか。いやむしろ、人間の疲れた姿、疲れてしゃがみ込んだ姿は、人間の年老いた姿、年老いてしゃがみ込んだ姿というのは、本当は人間本来の平和な姿なのではないか、と考えてみるのです。
★「エルサレムの広場には/再び、老爺、老婆が座すようになる/それぞれ、長寿のゆえに杖を手にして。都の広場はわらべとおとめに溢れ/彼らは広場で笑いさざめく」(ゼカリヤ書8:4~5)。ゼカリヤは、神様の怒りと裁きを乗り越えた新しい時代にふさわしい人間の姿として、しゃがんでいる年寄りの姿を示したのです。神様の怒りと裁きを乗り越えた時代には、人はいきり立って、それぞれ自分自身にしがみついて、自分が自分であろうと戦い、争い、非難しあうのではなく、むしろ、疲れてしゃがみ込んでしまう弱い、不完全な人間の姿をこそ、広場に、中心に据えるべきであると訴えたのでしょう。(おおくぼ)
by oji-church | 2008-09-26 10:01 | 牧師からのメッセ-ジ
 「構えを解いたら」

★牧師になってからずっと、教団の中で差別の問題への取り組みに関わっています。牧師になり立ての頃は、教会はそうした、いわゆる「社会問題」に真正面から取り組む「べきだ」という考えでしたので、誘われて、一も二もなくそうした働きに参加しました。そうして、いろいろな集会や講演会、勉強会を企画したりもしました。
★でも正直なところ、そうした働きが、本当に「差別を無くする」ために役に立っているか、という問いをずっと抱えても来ました。何か、講演会や勉強会を催せば、その時限り、そこに集まった人たち限りは、ひとしきり「差別はいけない」という題目を確認して帰って行きます。でも、差別というものは、当然そうした講演会や勉強会の中で起きるのでなく、ごくふつうの日常生活の中で起きるのです。講演会や学習会で確認した「差別はいけない」というお題目が、そうした日常生活の場で果たして生きているのか、問題はそこのところです。
★実は、講演会や学習会の中で確認される「差別はいけない」というお題目は、「差別に関わるとヤッカイだ」という心配から生じる、いわば優等生的「構え」なのではないか。「差別はいけない」というお題目を唱えていても、実際には、わたしたちの日常生活は、ありとあらゆる差別的な出来事に充ち満ちていて、それにまみれながら、わたしたちは生きているのです。
★部落差別も、外国人差別も、しょうがいを持つ人への差別、性的な少数者への差別も、高齢者への差別も、女性差別も、いろんな差別がわたしたちの周りには充ち満ちていて、だれもがそこに触れる可能性をはらんでいます。むしろそういう現状を認めた上で、「差別はいけない」という表面上の「構え」を解いて、「差別をしてはいけないと思いながら、でも差別をしてしまう『わたし』って何なのだろう?」と互いに考えあっていくことはできないかな? むしろ「差別」というものを前にしたそういう「構え」を解くことが、まずは「差別からの解放」の第一歩なのじゃないかな。(おおくぼ)
by oji-church | 2008-09-17 14:10 | 牧師からのメッセ-ジ
「欲望の暴走を前に」

★岩波書店から出されている雑誌『世界』9月号の特集は「死刑制度を問う」というテーマでした。いま、諸外国では、ほとんどの国で死刑は廃止の方向か少なくする方向に向かって進んでいます。その中で日本だけが、死刑執行の数がウナギ登りに増えているという状況です。そしてまた、死刑制度に対する支持も80%と増えていると言われます。このは単に、刑罰制度の問題ではなく、日本社会の中で、日本人が人間のいのちというものと、いったいどのように付き合っていこうとしているのか、という深い問題に関わっているように思うのです。
★雑誌『世界』の記事の中で、社会学者の大澤真幸氏とドキュメンタリー映画監督の森達也氏の対談「われわれは他者の死に向き合えるか。秋葉原事件と死刑をめぐって」という記事が示唆に富んでいました。「光市母子殺害事件の差戻判決で裁判官が死刑判決を言い渡したとき、裁判所の周囲を囲んでいた数百の群衆から、歓声が上がり、拍手が沸いたそうです」(森氏の発言)というのを読んで、正直わたしは体が震える恐ろしさを感じました。
★確かに「母子殺害事件」自体、人間の欲望の暴走の中で起こった、悲惨な事件であると思いますが、その犯人の死刑判決に、数百の群衆が歓声と拍手を挙げるという情景に、復讐心という欲望が大きくふくらんで暴走している様子が感じられるのです。殺人という人間の野放しの欲望による犯行に対して、やはり人間の復讐心という欲望が、野放しにされつつあるのを感じるのです。
★2001年のアメリカでのテロ事件以来、世界は暴力とそれに対する復讐、憎しみが連鎖をなして野放しに暴走していくのを目の当たりにしてきました。わたしたち自身も、知らず知らずのうちに、この暴走の中に巻き込まれているように思います。わたしたち教会のなすべき「信仰」とは(かつて教会自身が暴走の火付け役になった歴史もありながら)、本来は、そうした人間の欲望の暴走の前に、立ち止まって「いのち」とは何なのか、ということを問い返す役割を負うもののように思います。わたしたちがどれだけ、その役割を負ってゆけるのかが、問われているように思います。(おおくぼ)
by oji-church | 2008-09-12 15:49 | 全体のお知らせ