日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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 「大切なことは、そんなに多くはない」

★聖書は「唯一の神」について語ります。この「神が唯一である」ということが、他の宗教への不寛容を生み、戦争の火種となってきたことを否定は出来ません。けれども、わたし自身はいま、この「唯一の神」ということを、こんなふうに考えているのです。「本当に大切なことは、そんなに沢山はない」ということ。
★「神は愛である」と言われます。それは、自分と異なってはいても、どこかで自分自身と重なる部分を見いだして、自分と同じように相手を大切にしたいという気持ち、願い、つまり「愛する」という気持ち一つが、この世界全体を包んでいるのだということではないでしょうか。それがこの世界全体のただ一つの「大切なもの」だということです。わたしたちはこの「愛する」というただ一つの「大切なもの」の中に生きているのだということ。このことが分かれば、わたしたちにとって「守るべきもの」とは、そんなに沢山はないのです。どこへ行こうとも、わたしたちはこのただ一つの「愛する」という気持ちの中に生きているのだと、その中に生かされているのだと思うことができれば、わたしたちは、恐れの感情を膨らます必要はなくなるのです。
★何かを失ったように見えても、実は本当に大切なものは何一つ失われてはいないのだ、と心に思い起こしていくこと、「愛する」というただ一つの気持ちの中に、わたしたちは皆、今日も今も生きているのだということを思い起こしていくこと。そういう気持ちがあればこそ、わたしたちは互いに互いを敵視することなく、必要なものを分かち合ってゆくことができるのです。そういうわたしたちの姿勢こそが、本当の意味で、この世界全体に平和を形づくり、この世界を平和で満たす種となるのではないでしょうか。

by oji-church | 2008-08-13 14:43 | 牧師からのメッセ-ジ
 「『みんな悪いヤツ』という、差別の乗り越え方」

《ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストの信仰により、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません》(ローマの信徒への手紙3章21~22節。一部私訳)
《このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い者をくださるにちがいない。》(マタイによる福音書7章11節)

★ここでイエス様は「あなたがたは悪い者だ」と、最初から言っています。イエス様の出発点は「あなたがたは皆悪い人間だ」ということです。みんな悪い人間だけれども、でもそんな悪い人間であっても、神様は決して見捨てないんだ、と言うのです。
★こういうイエス様の信仰を通してわたしたちは、人間と人間との間を区別する差別を乗り越えていこうじゃないか、というのがパウロの訴えなのです。「信仰義認」、「信仰によって義とされる」ということなのです。
★「わたしたちはみんな悪い人間なんだ」。そこを出発点とするならば、わたしたちは、それまで見過ごしにしてきたお互いの小さな思いやりのかけがえなさに気づくようになるのではないでしょうか。自分はよい人間。だから、このくらいされて当たり前だ、なんて思っていたら、決して大切なものは見えてきません。わたしも悪い人間。あなたも悪い人間。でもその悪い人間同士が時に心通わせ、互いを思いやることができる時があるのです。そういう思いやりは誰彼の区別なく、実は誰もが持っているものだと思うのです。「わたしたちはみんな悪い人間なんだ」という出発点から出発する時、たがいのそんな小さな思いやりのかけがえのなさが見えてくるはずです。
by oji-church | 2008-08-06 16:58 | 牧師からのメッセ-ジ
「百尺竿頭に一歩を進む」

★このところ、仏教の禅に関心を抱き、本などを何冊か読んでいます。その中である言葉に再会をしました。「百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)に一歩を進む」という言葉です。これは、わたしが王子教会に来る前にいた、千葉の教会のわたしの前任の牧師先生がしばしば引き合いに出していた言葉だったのですが、『無門関』という禅の書物に出てくる言葉だったのだと、いまさらに知りました。
★どういう意味か。深いところはわたしにはまだまだ分かりませんが、百尺(一尺がおよそ三〇センチですから約三〇メートルです)の竿のてっぺんまで登り詰めてから、さらに一歩を踏み出してごらん、ということでしょうか。
★そんなことをしたら、真っ逆さまに竿の上から落ちてしまうに決まっています。でも、その一歩を踏み出すのが大事だということでしょうか。わたしには、何か少し分かる気がするのです。
★キリスト教の中にも百尺の竿があるように思います。教会の歴史や伝統、あるいは個人の信仰歴といったものです。それらの歴史の積み重ねは確かに貴重なものであり、大切にしなければならないでしょう。けれども、それを誇って、その上に寝そべって動こうとしない態度は、やはり人間の高慢の現れと言えるでしょう。イエスはそういう人間の態度に対して「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうとしない」(マタイ23:4)と批判しています。
★やはり大切なことは、その百尺の竿の先から、たったの一歩でも進んでみることです。そのことで自分自身が真っ逆さまに地に落ちてしまったとしても、その「高み」ではなく「低み」こそが、わたしたちの本来あるべき場所なのでしょう。(おおくぼ)
by oji-church | 2008-08-01 17:03 | 牧師からのメッセ-ジ