日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「差別を乗り越えるもの」

《わたしたちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリスト(へ)の信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました》(ガラテヤの信徒への手紙2章15~16節)

★上の聖書の言葉の前半は、あからさまな差別発言であると言ってよいでしょう。「異邦人」という「くくり」に対して、そのまま「罪人」というマイナスのレッテルを貼ってしまっているからです。
★その次の文はどうでしょうか。「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」とは、イエス・キリストに対する信仰を持つ者は、義とされる(=救われる)という意味に読めます。すると、その反対に、イエス・キリストに対する信仰を持たない者は、「救われない」という区別がやはり生まれてくることになります。残念なことに、この区別は、しばしば、「ユダヤ人=義人/異邦人=罪人」という差別の延長線上に、「クリスチャン=義人/非クリスチャン=罪人」という差別を作り上げることに利用されてきました。
★けれども、実際に聖書の本文を読んでみると、もともとここには「イエス・キリスト『へ』の」の「へ」という言葉は無いのです。これを抜き取ると「イエス・キリストの信仰」ということになります。「信仰」とは元来、ある人の持っている「信頼に値する誠実な、ひたむきな態度」と言う意味です。ですから、ここのところは、「クリスチャンの、イエス・キリストに対する信仰によって、クリスチャンは救われる」という意味ではなく、「イエス・キリストの、信頼に値するひたむきな姿によって、すべての人が救われる」という意味に、読まれるべきなのです。差別とは、人間の価値(その人が何によって救われるのかということ)を、このように人間全体を包み込む場所(この場合「イエス・キリストの信仰」)に置くことによって、初めて乗り越えることができるのです。(おおくぼ)
by oji-church | 2008-07-22 09:55 | 牧師からのメッセ-ジ
「それでもまだ生きている」

7月12日の夕刻に、王子教会にて難民の人たちを囲むアートワークのひとときを持ちました。今回はクルド人の方の発案から、大きなハートを描きました。しかしそのハートにはナイフが突き立てられ、ハートは四つに引き裂かれそうになっています。これは、トルコ・シリア・イラン・イラクの間で、引き裂かれてきたクルド民族の気持ちを表しています。しかし、流された血の中から新たなハートが生まれ、このハートはそれでもなお生き続けるのだ、というのが心底の気持ちです。痛々しい絵ですが、引き裂かれても、ナイフを突き立てられてもなお生き続けるものがある、という気持ちには、深く励まされます。(おおくぼ)

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by oji-church | 2008-07-17 14:02 | みちばたの教会
「さかさまの地図を見ながら」

★今夏8月16日から20日にかけて開催される北支区の「日韓青少年合同修養会」という集まりの「主題講演」なるものを任されるハメになってしまいました。この会合は、日本と韓国の中高生が集まって一緒に修養会を行うものです。
★その講演の原稿をつくらなくてはならず、先週は没頭していました。というのも、一ヶ月前には原稿を作り上げて、、当日それを同時通訳するために、あらかじめ韓国語に翻訳してもらい、韓国から来る中高生にも分かるように準備しておかなければならないからです。
★韓国には一度行ったことがあるきりで、一通りかつて日本が植民地として支配していたということはアタマに入っているものの、韓国と日本の歴史や交流について十分には考えたことがありませんでした。そこでにわか仕込みで、一杯勉強をすることになりました。
★富山県が作成した「環日本海諸国図」という地図があります。富山県を中心として、アジア大陸側から日本を見た地図です。こうしてみると、見慣れた地図がずいぶんと違って見えはしないでしょうか。「日本海」(韓国では「東海」と言います)が、大きな湖のように見え、韓国と日本はこの湖の向こうとこちらという関係です。しかし、この近いはずの隣人に、かつてより日本は蔑視のまなざしを向け、植民地として支配していったのです。
by oji-church | 2008-07-17 13:38 | 牧師からのメッセ-ジ
「振り返ること、立ち帰ること」

《イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた》(マルコによる福音書5章30~32節)

★ここで、群衆の中でイエスが「振り返り」と訳されている言葉は、他の聖書の場面では、「(神に)立ち帰る」というようにも訳される言葉です。あるいは「悔い改め」とさえ訳されることもある言葉です。
★まさか、イエス様が「悔い改める」なんてことはありえないだろうと言われるかもしれませんが、この場面でのイエス様の「振り返る」という仕草には、何か単なる「体の向きを変える」という以上のものを感じるのです。
★弟子たちが押しとどめるのも振り切って、イエス様は自分の服に触れた者がだれなのかを探し求めるのです。それまでは、伝道の成果も実って「大勢の群衆」に取り囲まれる「強い立場」の中にいるイエス様ですが、ここで自分自身の向きを変えて、たった一人の姿の見えない人物を、必死になって探し求める方向へと向かっていくのです。その姿は、「自分自身の力や強さを捨てる」という、確かに「立ち帰り」の姿を示してはいないでしょうか。
★人間同士が競い合ういまの社会の中にあって、「強い/弱い」どんな立場にある人でも(当然牧師も含めて)、人は時に「強さ」でもって人をおとしめて支配し、その上に立ちたいという欲望を、「業」のように抱えているものかもしれません。群衆の中で振り返り、弟子たちの制止も振り切って、触れた者を見つけようと沈黙して辺りを見回し、立ちつくしているイエス様の姿は、この支配と競争の社会から抜け出す道をわたしたちに示しているように思うのです。(おおくぼ)
by oji-church | 2008-07-10 11:18 | 牧師からのメッセ-ジ
「引っ込むこと」

★「相手のための空間を作るためには私が引っ込まなければならない。……遍在し全能である神はどこにでもいます。神は、その存在をもって宇宙を充たした。では、どうやって創造は起こり得ただろうか。……神は、引っ込むことによって創造しなければならなかった。彼は、自己収縮、自己集中によって、彼でないもの、他者を創造した。……人間の水準では、私が引っ込むことは、他者が生存する助けとなるのである」(H.J.M.ヌーウェン『傷ついた癒し人』より)。
★プロテスタントの教会というのは、どうしても、言葉が先行してしまいがちです。礼拝の中心は牧師の説教であり、聖書は「研究」するものとして据えられています。
もちろん、説教の言葉も、聖書研究も、とても大切なものなのですが、人間同士の関係は言葉だけによって成り立っているものではなく、多く、言葉にならないものによって結び合わせられたり、引き離されたりしているようにも思われます。とりわけ教会の中では、牧師の語る言葉が力を振るっているかもしれません。牧師は言葉を大切にする上でも、言葉を控え、自分自身を「引っ込める」ことを心がけるべきなのかもしれません。自分の「言葉」が人を救うなどと思ってしまうのは、やはり牧師の傲慢と言わざるを得ないでしょう。
★ナウエンさんは別のページで、こんなふうに言っているのです。「どのような牧師も、だれ一人救えない。彼は恐れている人びとに、導き手として自分を提供することができるだけである。しかしながら逆説的ではあるが、まさにこの導きにおいて希望の最初の徴が見え始めるのである。というのは分かち合われた苦痛は、それが解放への道として理解される時、もはや麻痺させるものではなく、人を前進させるものとなるからである」。
★「だれも救えない」という厳しい事実を自分の傷として刻むことによって、この傷が自ずと人に寄り添い、同伴する力を発揮するということ。このことを、ねばり強く「待つ」訓練をこそ、牧師は積まなければならないのかもしれません。(おおくぼ)
by oji-church | 2008-07-02 10:17 | 牧師からのメッセ-ジ