日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「疑わしきは……、どう思いますか?」

★先週、連続幼児殺害事件で死刑判決を受けていた宮崎勤死刑囚の死刑執行が行われたとの発表がありました。現在の法務大臣になってから、驚くべきスピードで数多くの死刑が執行されています。
★ニュースに流れる巷(ちまた)の声の多くは、死刑賛成の声です。「精神しょうがいであるかどうかは、関係ない」「宮崎や病気を偽っていたのではないか?」「被害者遺族の気持ちになって考えるべき」等々の意見です。
★、裁判中、宮崎被告に対して3通りの精神鑑定が法廷に出されました。そのうち、宮崎被告を「多重人格」と位置づけて、「責任能力に問題がある」と結論づけた鑑定人のコメントが印象に残りました。「虚言や詐病を思わせることに多々接し、心は千々に乱されたが、疑わしきは被告人の有利にという法の基本原則に従いたい。すべてが虚言や詐病だとしたら、鑑定人はだまされたことに人間として誇りを持ちたいと思う」(鑑定書より/TBSの報道から)。
★「疑わしきは被告人の利益に」という裁判の原則があります。「狭山事件」の被告とされた石川一雄さんに出会い、えん罪について学ぶ中で、この原則の大切さを知らされました。刑事裁判において検察側は、被告が全くの疑問の余地無く有罪であることを立証する責務があります。少しでも疑わしい部分が残れば、有罪とはならないという原則です。この原則は、出来る限りえん罪を生み出さないようにとの民主主義的な配慮から生まれました。この原則が実行されないと「怪しいヤツは皆刑務所に。死刑に。」という恐怖政治が、社会全体を支配することになります。
★残念ながら一見民主主義的な法治国家に見える日本で、この原則は十分に実行されていません。その結果、恐怖と不安が日本社会全体を覆っているようにも思います。そうした感情や気分に後押しされる形で、発作的に煽られた死刑賛成論がわき起こっているのが現在の状況ではないかと思うのです。(おおくぼ)
by oji-church | 2008-06-27 11:42 | 牧師からのメッセ-ジ
「ふたりでひとり」

《「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」 》(ルカによる福音書10:36~37)

★律法の専門家の「わたしの隣人とはだれですか」と問いかけから始まった話が、最後のイエス様の問いかけは、「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」という問いに入れ替わっています。
★「だれがわたしの隣人か」という問いは、自分は「人を助ける立派ないい人」という立場から一歩も動こうとしない問いです。一方「だれが隣人となったか」という問いかけは、新たに「隣人となっていく」という、動きのある問いかけです。自分は「人を助ける立派ないい人」という立場から一歩も動こうとしない姿勢からは、本当に「隣人」となる関係は生まれてこないと思います。本当に「隣人」となるというのは、助け、助けられる関係を形づくっていくということです。そのためには、自分自身の心の中に、弱く傷つき、痛みを負って、助けを求めている、不安や、絶望や、寂しさがあるのだということを、よく見つめてみること、それを自分自身の大切な一部として受けとめ、打ち明けることができる、そういう姿勢が必要なのでしょう。
★イエス様が指し示しているのは、単に「人を助けるいい人になりなさい」ということではなくて「隣人になりなさい」という教えです。隣人になる、ということは、ただ「助ける者になる」というだけでなく、「助けられる者になる」ということでもあるのではないでしょうか。「助ける者」と「助けられる者」がいて、始めて、隣人同士という関係が成り立つのですから。「追いはぎに襲われた人」と「サマリア人」とふたりが居て、それそれで始めて、一人前の隣人同士なのです。(5月25日の礼拝説教より)(おおくぼ)
by oji-church | 2008-06-04 12:36 | 牧師からのメッセ-ジ