日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「『愛着』というきもち」
★「駒込には、およそ三十五年も住んでいることになる。/というと、聞いた人は大抵、土地がよっぽど性に合っているんですね、とか、それではもう、死ぬまで離れられませんね、と言ってくれるのだが、その都度、とんでもない、ただの成行きなんです、と不機嫌な声を返さずにはいられない。しゃれた喫茶店ひとつない、年寄りだらけの、くすんだこの街のどこがいいって言うんですか、と私がぶつぶつ言うと、これも大抵、相手は簡単に頷いてくれて、それもそうですね、下町でも、山の手でもない、中途半端な場所ですね、と答える。するとまた、私は苛立って言い返すことになる。それでもわたしは年寄りのいない街なんて死んだって行きたくないし、明るいだけの街なんて大嫌い。そうして相手を睨みつける。相手には、なにがなんだか分からない。駒込が好きなんだろうか、嫌いなんだろうか。私にも、実際、よく分からないのだ。好きか、と聞かれれば、嫌いだ、と言いたくなるし、それでいてけなされればくやしくなる」(津島佑子『幼き日々へ』講談社より)。
★津島佑子さんという作家がおられます。太宰治の次女という方ですが、太宰は津島さんが1歳の時に亡くなっています。わたしはいっとき太宰治に夢中になった時期があって、津島さんも気になる方でした。その津島さんが、わたしの生まれ育った駒込に長く住まわれていたことを、最近彼女のエッセイを読んで知りました。ちょうどわたしが子ども時代を過ごした時期と重なるようです。
★津島さんが書かれている、駒込というまちへの気持ちは、わたしもまったく同じです。でも、もしかしたら、人の愛着という感情は、そんな具合に一筋縄ではいかない、複雑なものなのかもしれません。「預言者は、自分の故郷では歓迎されない」、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われたイエス様が、しかし「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と言われたのもうなずける気がします。わたしはといえば、いまは、いま働いている、キリスト教、教会という場に、同じような複雑な愛着を抱えています。(大久保)
by oji-church | 2008-03-21 10:09 | 牧師からのメッセ-ジ
「神の国、いま、ここに」

〈空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。……野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。……何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。〉(マタイ6章)

★「私たちは、生まれたときに神に愛される者となり、死ぬときにそれを止めるわけではありません。神に愛されていことは、永遠のことです。神は言われます。『わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛した』(エレミヤ30:3)。この愛は、父や母が私たちを愛してくれる以前から存在し、友人たちに死を看取られたのちもずっと続くものです。それこそが神の愛であり、絶えることのない、永遠のものです」(ヘンリー・ナウエン『いま、ここに生きる』)。
★ヘンリー・ナウエンの『いま、ここに生きる』という本を、月一回の聖書を読む会で3年がかりでようやく読み終えました。この本には「生活の中の霊性」という副題が付いています。二十代の頃は「霊」ということがよく分からず、敬して遠けていました。しかしイエス様の「思い悩むな」という呼びかけこそが、この「霊」というものと深く関わっているのではないかと思うようになりました。
★神様の「霊」とは、どこか遠くに鎮座しているものではなく、空の鳥も、野の花も包んで、この世界のいのち全体を包んで「いま、ここ」にあるということ、だからこそ「明日を思い悩まないで」という呼びかけが生まれてくるのでしょう。このことを感じ受けることこそが、「神の国、神の義を求める」ということであり、わたしたちにぜひとも求められていることなのだと思うのです。
by oji-church | 2008-03-13 09:51 | 牧師からのメッセ-ジ
「十字架に付けられてしまったキリスト」

★世の中に、「惨めにならないために」「墜ちてしまわないように」「立派でありつづけるように」と呼びかけ、アドバイスする警句や、戒めや、道徳は、数限りなくあることでしょう。けれどもじゃあ、ひとたび「惨めになってしまった者」「墜ちてしまった者」のの助け、救いとなる声はどこに響いているのか。「しちゃったヤツ」「やっちゃったヤツ」という烙印を、消し去る力はなかなか見いだされません。それはもしかしたら、わたしたちのこの社会が、教会までもが、躍起になって、力を「強さ」「立派さ」の中にばかり、探し求めているからなのかもしれません。
★「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(Ⅱコリント12:9)。この言葉を単にスローガンとしてではなく、自らの体をもって、「十字架に付けられてしまったままの姿」でもって示した方がおられた。確かにその「十字架に付けられてしまったままの姿」でもって、その弱さによって、キリストはパウロを蘇らせ、一人の死刑を宣告された人の慰めとなった、力となった人がいるのです。
★「やってしまった」労苦を、必死になって打ち消すのではなく、その労苦を労苦のままに共に担って歩み、労苦を労苦のままに自らの身をもって、みずからの惨めで弱々しいありのままの姿でもって祝福してくださるキリストがおられる。そのことを心に刻み、ありのままの姿で、「してしまった」「やってしまった」姿のままで励まされ、慰められるのが、信仰の道というものなのでしょう。
★ならば、信仰の道とは、決して苦労や労苦をかき消し、取り除かれる、安楽で華やかな道ではないのかもしれません。むしろ苦難を苦難として直視する道であるといってもよいでしょう。けれど、その苦しい道のりを、自らの弱さ、惨めさをそのままに「十字架に付けられてしまった姿」のままに共にしてくださるキリストがおられるという、他の何者も示すことができなかった力、「弱さの力」を与えられるのもまた、信仰の道のりに違いありません。(2月24日の礼拝説教より)
by oji-church | 2008-03-06 13:08 | 牧師からのメッセ-ジ
「いったい何を守っているというのか」

★先週自衛隊の艦船が民間の漁船と衝突し、父子二人の漁師が行方不明となる事件が起きました。これを書いている2月23日の時点で、まだ父子は見つかっていません。
★ぶつかった自衛隊の艦船イージス艦というのは、イージス・システムという高性能のレーダーを搭載した軍艦です。このレーダーによって上空のミサイルや飛行機を遠くから把捉でき、多数の標的に対して即時・同時に迎撃することができる最新鋭の兵器です。今アメリカを中心にして、「ミサイル防衛」(攻撃してくるミサイルを着弾前に撃ち落とす作戦)という計画が進んでおり、日本もこの計画に参加しています。今回事件を起こしたイージス艦「あたご」は、このミサイル防衛に組み込まれています。ミサイル防衛は、宇宙空間の軍事衛星からもミサイルを攻撃することを目論んでいます。「防衛」とは言いながら、戦場を無限に拡大していく要素をはらんでいるものです。
★今回の事故が報道される中で、ある政府の閣僚が「万が一これが自爆テロの船ならどうするのか」と声を荒げているのがテレビから聞こえてきました。事故当日で、行方不明の父子はまだ見つかっていない時です。事故に遭って遭難している二人の生命よりも、「テロとの戦い」といった大義名分、ひいてはその道具としての最新鋭の「トラの子」であるイージス艦の方が大事、という政治家の思惑丸出しの発言に、正直はらわたの煮えくりかえる思いです。メディアは何も指摘しませんが・・・。
★「防衛」と言いながら、いったい何を守っているというのでしょうか。閣僚のどこか「人形」めいた挙措動作や、情報が何も出てこない防衛省の態度と比して、勝浦の漁民の方々の悲憤する姿からこそ、わたし自身がすでに失ってしまいつつあった、本来の守るべき人間性について、深く考えさせられます。(大久保)
by oji-church | 2008-03-01 12:36 | 牧師からのメッセ-ジ