日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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難民の方が、また王子教会のためにクリスマスカードの絵を描いてくださいました。
今年は、「カワイイ」バージョンです。(大久保)
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by oji-church | 2007-12-20 10:24 | みちばたの教会
「人間の枠を超えた小ささで」

★「ごく小さなものたちの世界も、関心をもつ人はほとんどいませんが、とても興味深い世界です。/子どもたちは、きっと自分自身が小さくて地面に近いところにいるからでしょうか、小さなもの、目立たないものをさがしてはよろこびます。そのことに気がついたならば、わたしたちがふだん急ぐあまりに全体だけを見て細かいところに気をとめず見落としていた美しさを、子どもとともに感じとり、その楽しさを分かち合うのはたやすいことです。/自然のいちばん繊細な手仕事は、小さなもののなかに見られます。雪の結晶のひとひらを虫めがねでのぞいたことのある人なら、だれでも知っているでしょう。……また、いろいろな木の芽や花の蕾、咲き誇る花、それから小さな小さな生きものたちを虫めがねで拡大すると、思いがけない美しさや複雑なつくりを発見できます。それを見ていると、いつしかわたしたちは、人間サイズの尺度の枠から解き放たれていくのです」(レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』)。
★わたしたちは、「人間を超えたもの」と言われると、どうしても人間よりも大きなものを思い浮かべてしまうものです。けれども、わたしたちオトナよりも、もっと「人間を超えたもの」への鋭い感覚を持っている子どもたちにしたがって、「人間を超えたもの」へと思いめぐらせていくと、ときに図らずも、自分よりも小さなもので、これまですぐそばにあったのに、気付かなかったものに導かれます。
★小さくて、すぐそばにあったのに気付かなかったもの。そういうものの中に聖書の語る「福音」なるものは、隠されているように思うのです。
★クリスマスは、ひとけの絶えた裏通りの地べたにすえた飼い葉桶の中で起こった小さな小さな出来事です。この小さな出来事に導かれて、わたしたちは人間の枠を超えた存在に出会わされるのです。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」。
by oji-church | 2007-12-20 10:22 | 牧師からのメッセ-ジ
当ブログへのリンクを張られる方は、ご一報くださいますよう、よろしくお願いいたします。(ブログ管理者より)
by oji-church | 2007-12-16 15:01 | リンクについて

黄色い絨毯

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先週の日曜日の礼拝の後、教会の外に出てみると、街路一面黄色い絨毯が敷かれていました。ここ1~2週間の間に色づいて、散り始めた銀杏の並木が、一気に大詰めを迎えているようです。これからしばらく、掃き掃除が大変になりそうですが、できればそのまま絨毯を敷いたままにもしておきたいのですが。通る人が滑るといけないので・・・。(大久保)


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by oji-church | 2007-12-12 16:25 | みちばたの教会
 「キリストは明日おいでになる」(2)

★先週に続いて、「讃美歌21」の244番「キリストは明日おいでになる」について書きます。この讃美歌の3番~5番の歌詞は、こんな歌詞です。「明日はみんなのクリスマスだ。み神の愛の祝いの日だ。救いの星は空に照るが、世の人は主をかえりみない」「明日を持たないひとびとにも、生命(いのち)のパンがあたえられる。そのみからだが示すものは、また来たりたもう復活の主だ」「み子キリストはいつの世にも、みどり子としておいでになる。その約束を果たすために、わたしたちをも用いられる」。
★2002年のクリスマス、世界はイラクへのアメリカの攻撃が始まるか否かという情勢の中にありました。世界は前年にアフガニスタンへのアメリカ軍の攻撃を経験していました。そんな中で不当な戦争に抗議の声を挙げようと、京葉中部教会の人たちを中心として、イラクの子どもたちに取材した写真展を市内で催すことを計画していました。翌年2003年の3月に写真展の開催にこぎ着けましたが、その前にイラクへの攻撃は開始されていました。
★攻撃開始の前の週、わたしは「こどもの教会」のこどもたちに、「戦争は止められる」と信じることができれば、戦争は止められます、と話しましたが、しかし戦争は止められませんでした。攻撃開始から最初の日曜日の説教は、きちんと準備する気力も沸かないまま、ポツポツと語りました。その後に、この244番の讃美歌を歌いました。「救い星は空に照るが、世の人は主をかえりみない」「み子キリストはいつの世も、みどり子としておいでになる」。バグダッドの爆撃の炎の下に子どもたちがいることは分かっていました。そのことを思い起こしながら、この讃美歌を歌うと、「ああ、あの爆撃の下にキリストはみどり子として今日生まれたのだ」という思いがわき起こってきて、どうしようもなく涙がこぼれてきました。教会は、クリスマスを祝いながら、この爆撃の下に生まれるキリストの痛みをどこまで受けとめているか、問われるところなのでしょう。(大久保)
by oji-church | 2007-12-12 16:15 | 牧師からのメッセ-ジ
「キリストは明日おいでになる」

★今週から教会の暦では待降節(アドヴェント)に入ります。「アドヴェント」とは、「到来」という意味の言葉です。クリスマスの4週間前からキリストの到来を待ち望むということです。古くはこの時期は、断食の季節であったとも言われます。
★この時期になると、思い起こす讃美歌があります。「讃美歌21」の244番「キリストは明日おいでになる」という歌です。こんな歌詞です。「キリストは明日おいでになる、この世が闇に閉ざされても、客間はあふれ余地なくても、きのうこられたみ子のように」。「この世はいまもあらたまらず、み子はこられるうまやのなか。十字架に主をくぎづけにし、墓におさめた時のままだ」。
★クリスマス前の華やいだ街の雰囲気とは裏腹に、あまり明るい歌ではありません。曲調もマイナーコードです。ですが、この歌の歌詞が、ある面で現代のクリスマスの真実を言い表しているように思えてなりません。
★イエスの生涯が示すのは、わたしたちにとって「福音」となるべきものを、人間が自身の自己中心的な願望のために、十字架にくぎづけにし、墓に納めてしまったということです。教会に集うわたしたちは、そのことを改めて「福音」として告げ知らせられて、心新たに歩み出した者の集まりのはずですが、教会もまた、現代にあって、この「福音」よりも、教会の栄光、教会の繁栄を追い求めているようであります。そしてわたしたちを含めた「この世」はいまもまだ「あらたまらず」、み子は「うまやのなかにこられる」のです。
★けれども、そうしたわたしたちの振る舞いのすべてを越えて、「キリストは明日おいでになる」。「この世が闇に閉ざされても、客間はあふれ余地なくても」。わたしたちの思惑や、振る舞いを全て乗り越えて到来する、み子の誕生を、真に「福音」として、もう一度受けとめることができればと願うものです。
by oji-church | 2007-12-12 15:16 | 牧師からのメッセ-ジ