日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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新会堂献堂式

10月14日に、多くの方々のご出席をいただいて、無事献堂式を行うことができました。1994年に始まった王子教会の会堂建築の計画ですが、ここに至るまで、多くの方々にお支えをいただきましたことを、改めて感謝申し上げます。
建ちあがった会堂を神様にお献げし、神様にお返しして、また心新たに、裸の教会として出発を喫したいものです。今後ともよろしくお願いいたします。(大久保)

献堂式の様子
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感謝会の様子
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by oji-church | 2007-10-24 16:57 | 全体のお知らせ
「教えられたことを理解したから」

★《総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」レビ人も民全員を静かにさせた。「静かにしなさい。今日は聖なる日だ。悲しんではならない。」民は皆、帰って、食べたり飲んだりし、備えのない者と分かち合い、大いに喜び祝った。教えられたことを理解したからである》(ネヘミヤ記8章9~12節)。
★今日わたしたち王子教会は、ようやっと新しい会堂を神様に献げる献堂式の日に至りました。わたし自身はこの会堂建築の計画に途中から加わっただけでありましたが、最初の一歩からこの計画に携わってきた方にとっては、長く困難な道のりだったことだろうことを思い、その感慨のひとしおの深さを思い描きます。
★上の聖書の言葉は、ユダヤの人々がバビロン捕囚の憂き目に遭い、故国が滅亡した50年後、再び解放されて、故国の地に苦難の末にようやっと神殿の再建を果たし、それを祝って祭司エズラとネヘミヤが聖書を朗読した時の場面です。
★「嘆くな。泣くな」と言われても、彼らは感涙にむせぶほかなかったでしょう。その涙の裏には共に歩んだ苦難の道が顧みられていたのです。最後の文章「教えられたことを理解したからである」という一言が心に残ります。「泣くな」と言われても泣くしかなく、しかし「喜びなさい」と言われれば、その喜びの意味を皆が共によく理解しているのです。民は黙って家に帰り、言われた通り、持つ者も持たざる者も共に分かち合って喜び祝いました。この涙の後の共なる理解と分かち合い、そして喜びこそ、教会や礼拝というものの始まりだったことを思います。そんな礼拝の場を、新しい会堂でぜひとも共に祝ってゆきたいものです。(大久保)
by oji-church | 2007-10-20 12:38 | 牧師からのメッセ-ジ
「切り結ぶ」

★「小黒丹十郎は、寄手の軍兵と斬り結んでいる間に、主君が腹を切ったという声を聞くと、勝ち誇った鬨の声と火の粉の下を潜り抜けて屋敷の外に遁れた。そして妻子を連れて二度目の放浪の旅に出たのである」(『竹光始末』)。
★若いふうを装っていますが、実は密かな愉しみは山本周五郎や藤沢周平の時代小説を読むことです。先日藤沢周平の短編小説を読んでいて、新しい認識を与えられました。
★伝道師になり立ての頃、赴任した教会の伝道礼拝に在日韓国人の牧師先生がいらっしゃった。戦後の時代を牧師として、在日韓国・朝鮮人の人権のために闘いながら歩んでこられたその先生は、「時代と『切り結ぶ』」という、聞き慣れない言葉を説教の中でたびたび使われました。「時代と切り結ぶ」という言葉の意味がよく分からず、「時代を切ったり、結んだりすることか? でも、それってどういう意味だ?」とこの歳になるまで思案し続けてきました。
★先日、藤沢周平の小説を何気なく読んでいた時、この「きりむすぶ」という言葉に再会しました。ああ、「きりむすぶ」とは、武士が相手の武士と刀を交えて闘うような情景のことだったのか、と合点した次第です。
★いまわたしたちが生きている時代に触れて、そこに関わっていくということは、自分の身を切られるような痛みを伴うことなのかもしれません。実際あの在日韓国人の牧師先生は、日本の戦後の時代全体にわたってそのような経験を積み重ねてこられたのでしょう。しかし同時に、藤沢周平の小説がしばしば描いているのは、互いに刀を交えなければならなかった武士同士が、不思議と敵同士でありながら、そうした「斬り結び」を通して実は誰よりも互いを理解しあう感情に至るという光景です。「時代と切り結ぶ」とは、時代と関わって切り切られという痛みを伴う関係を結びながら、本当に人間同士が互いを理解し合い、「結び合う」ことを目指してゆくことなのかもしれません。(大久保)
by oji-church | 2007-10-12 16:33 | 牧師からのメッセ-ジ
「失うことには」

★先日夕食を食べながら、テレビの若者向け番組をぼんやり見ていたら、ファッション評論家(というのでいいんでしょうか)のピーコさんが出てきて、高校生に向けて話されていたことに、イタく共感しました。
★ピーコさんは、17年前に30万人に一人がかかるという眼の病気にかかって、片眼を失明したそうです。それまでは、自分のために、アレを手に入れ、コレを手に入れという生き方をしてきたとピーコさんは語ります。でも、その時になって思ったことがあったそうです。これからはもう、自分のために生きるのはヤメた、と。そうしてこう語るのです。「わたしはゲイで、片眼を失った障害者です。だから、これからは自分のためでなく、そういうひとたちのために、マイノリティーのひとたちのために生きていこうと思うようになった」と。
★そうして、ファッション評論家として高校生に語るのは、「いまは、こんなオトナが言っていることが何なのか、よく分からないかもしれないけれど、それを大事に持っていてほしい。そうすれば、内側から自分を磨くことになって、そうすれば、どんな服を着ていたってその人は素敵なのです」と語っておられました。
★何かを失うことは、わたしたちにとってつらく痛ましいことに違いありませんが、その時になってはじめて、わたしたちは、痛みを負うマイノリティー(少数者)の人たちの気持ちを理解するキッカケを与えられるのかもしれません。
★失ったものへの追憶に生きるのか、そのことをバネにして、他者とくに少数者の人たちの痛みへの「思いやり」に開かれるのか、二様の生き方が僕らに投げかけられているように思うのです。(大久保)
by oji-church | 2007-10-03 12:01 | 牧師からのメッセ-ジ