日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「小さな人間」

★先頃亡くなられた作家の小田実さんが、最後に執筆を計画していた『世直し・再考』という本の序章に当たる部分が、雑誌に掲載されたのを読みました。その中で、小田さんは、繰り返し「大きな人間」と「小さな人間」ということを語っておられます。
★「『アメリカの世紀』の世界覇権という野望を実現しようとした政治の世界の人物たちを『大きな人間』とするなら、市民はたいていがそうした大それた力をもたない『小さな人間』です」(岩波『世界』10月号より)。そうして自身も「まぎれもなく『小さな人間』のひとである」と語ります。
★さらには、こうした「小さな人間」の「大きな人間」に対する反逆と勝利が、アメリカ政府にイラク戦争政策の転換を余儀なくさせた2006年のアメリカ中間選挙の結果であると語ります。多くの人々が正気を失い戦争の暴力に駆けだしていった後、しかしやがて「小さな人間」が正気を取り戻して「大きな人間」に反逆し、勝利を得るに至る、その陰には、多くの人が正気を失っている中で、正気を失わずにいた少数の人たちがいつづけたことを、忘れてはならないとも語っています。
★最近とみに、大きな時代や社会の流れの中で、「自分」という人間のうんざりするほどの「小ささ」を、痛感するようになってきました。年のせいでしょうか。
★この「小ささ」の無力さに、うなだれて落ち込むこともたびたびですが、しかし最近はむしろ、この「小ささ」の中に秘められている大事なもの、かけがえのないものを、大きな時代や社会の流れの中で、いかにして保ち続けることができるか、このわたしが……というところに関心が向きます。これも、やっぱり年のせいでしょうか。(大久保)
by oji-church | 2007-09-25 12:11 | 牧師からのメッセ-ジ
「強ければ、何でもいいか?」

★わたしたちの住まう国では、先週首相が辞意を表明して一気に政権が瓦解しました。人の痛みを感じ取ることが出来ず、ただ憲法改定という自分の身勝手な夢を、「美しい~」と自画自賛して実現することだけに血道を挙げていた政権が倒れたことはよかったと思います。
★けれども危惧することがないわけではありません。ただの勢いに任せた「リーダーシップ願望」が、わたしたちの社会を覆っていることです。そもそもこの政権発足時の党首選挙では、皆が勝ち馬に乗る形で政権が発足しました。何よりも「人気」優先だったのです。それが今となってみれば、誰も見向きもしない有様です。
★再び新しい政権の首相が誰になるかという段階になって、前々政権の「○○劇場」と呼ばれた人を、「人気」に任せて担ぎ出そうという人たちがいることに、滑稽さと同時に恐ろしさを感じます。この人の手法になる「改革」なるものによって、社会と人の生活が恐ろしい程に崩壊させられている現状にもかかわらず、です。この人を担ぎ出そうという人たちには、「○○チルドレン」と呼ばれた人たちが多いことも気になります。いつまでも「チルドレン(=子ども)」でいて、誰か強い権力や権威を持った人に自分の主体性をあずけて、それでもって自分の地位を確保しようという思惑が透けて見えます。
★「強ければ、何でもよい」という「力崇拝」がいまのわたしたちの社会全体を覆っているように思います。その結果、政権は倒れたけれども、「国を愛する」教育基本法と、「国を守る」憲法に変えるための国民投票法は残りました。何とも知れない未来を思います。(大久保)
by oji-church | 2007-09-19 10:20 | 牧師からのメッセ-ジ
「何者でもない人生を、生き切ること」

《弱い人に対しては、弱い人のようになりました。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。》(Ⅰコリント9章22節)。
★人間は最初、生まれるとすぐに母親の胸に抱かれ、そこで一番最初に、安心・安全・信頼・満足といった感覚を学ぶのだそうです。その一方で赤ちゃんは「お乳の出るよいオッパイ」と「そうでない悪いオッパイ」を区別して、これが人間の善悪の区別の最初の一歩になるようです。
★けれどもこの区別は、100パーセント「良い」か、100パーセント「悪い」かしかない、幼稚な区別に過ぎません。やがて親の保護を離れて、人間は100パーセント「良い」とも「悪い」とも決めつけられない世界に触れ、自分で判断する力を養っていかなければならないのです。それが成熟するということです。
★「郵政民営化は是か非か」という単純な二者択一や「美しい国」というような大上段な物言いが横行していますが、本来の人間の生き様とはそれほど白黒ハッキリとつくものではありません。しかし白黒ハッキリつかない人間の在り方を、「弱い生き様」としてバッサリと切り捨てようとするのが昨今の風潮のようです。
★「律法に支配されている人に対しては、律法に支配されている人のようになり」「律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになり」「弱い人に対しては弱い人」となったというパウロの姿は、この白黒ハッキリつかない人間の「いのちそのもの」の有様の正直に生きた姿だったのかもしれません。
★白黒ハッキリつかない、つまりは、「何者」という肩書きを得られない人生とは、一般には「挫折した人生」と見なされるでしょう。けれども、イエスという人はまさにそうした「何者でもない」生き様を生きた人でした。パウロはこのイエスの生き様を「福音」と呼び、その生き様に自らの生き様を重ねて生きることを「使徒」という務めの名で呼んだのです。(大久保)
by oji-church | 2007-09-13 10:33 | 牧師からのメッセ-ジ
「『福音』とは『生きること』そのものではないか?」

《わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、委ねられている務めなのです》(Ⅰコリント9章16~17)。
★ここでパウロが「福音を告げ知らせる」と言って、自分の「働き」として言い表そうとしていることは、何か特別に「高尚な任務」というわけではないように思います。パウロが「福音を告げ知らせる」という言葉で言い表そうとしているのは、いわば「生きる」ということではないでしょうか。
★「生きる」とは、ひとたびこの世に生まれてきてしまったからには、ひとたびいのちを与えられてしまったなら、誰しもひとまずは、さしあたっては、生きていかざるをえない。すなわち「そうせずにはいられない」ことです。それをしないこと、つまり「生きている」のに「生きない」ことは、やはりわたしたちにとって「不幸」なことでしょう。さらに、誰も自分から望んで「よし、生まれよう」と生まれてくる人はなく、いわば「強いられて」やっているのが、わたしたちにとっての「生きる」ことに他なりません。
★「生きる」とは、実は本来誰もがやっていることで、「誇り」となることではありません。でも、わたしたちはしばしば、この「生きる」ことの本当の在処を忘れて、能力とか経済力とか利益を生み出す力とか、そんなものでお互いを測り、測られて、自分を誇ったり、他人をけなしたりしています。
★パウロが、こうした本来の意味での「生きる」ということを、「福音を告げ知らせる」という言葉で言い表しています。そこには、「誇り」にもならない、でも何かの物差しで測り比べられない、生身の、裸の人間の、赤裸々ないのちの営みの傍らにこそ「イエスは共にいる」というパウロの思いが息づいているのでしょう。(大久保)
by oji-church | 2007-09-05 11:50 | 牧師からのメッセ-ジ