日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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 「生きた“からだ”をもって」

★王子教会は今年で創立114周年を迎えました。114年間続いてきたということはスゴイことではあります。けれども、現在のわたしたちに求められることは、この114年を、「わたしたちの功績」として、あるいは他の誰かの「功績」として賞賛することよりも、「今、教会は生きているか」ということをふり返ってみるということ、「今」をふり返るということでしょう。
★キリスト教では、教会は「キリストの体」であると言われます。「からだ」と言うからには、それが生きていることが第一の前提となります。じゃあ「生きる」ってどういうことなのでしょうか。
★わたしたちは、誰しもが自分独りでこの世界に生きているのではありません。誰しもが、多かれ少なかれ、この世界や自分とは違う人との関わりの中で生きています。「生きる」とは、「関わりの中にある」ということなのかもしれません。ですから教会もまた、ちがう者同士の「関わりの中」にあることによってはじめて、「生きる」ものになるのでしょう。
★最近、「教会って何のためにあるのかしら?」っていうことを思わされます。その一方で、牧師室の片付けをしていて、自分の買い集めた本の多さに我ながら辟易させられます。わたしが「生きる」とは、本の中の文字との関わりによってではなく、ちがうものとの触れ合いの中にあることなのでしょう。そのための研鑽や訓練は惜しまないようにしてゆきたいと思います。ちがうものとの触れ合いは、その中に幾多の「問題」もあり、それと同時に計り知れない「喜び」も隠されているものと思います。だから「生きる」ってなかなかムズカシイことです。ガンバリ過ぎずに、ボチボチ、ゆっくりと、鈍行で味わってゆければと思います。(大久保)
by oji-church | 2007-08-30 11:04 | 牧師からのメッセ-ジ
わたしの中心をズラしたら

★先週は、ひどい猛暑が続きました。休暇をいただいて、そのあいだに北アルプスの山に行きました。山に登っても(そんなに高いところではありませんが、二千メートルを越える場所です)、暑いのですから、やはり世の中異常気象に違いありません。くれぐれも熱中症にお気をつけられますように。
★北極では、氷が専門家の予測よりも30年早いペースで溶け出していると聞きます。40年~50年後には、北極の氷は無くなってしまうとも言われます。
★何十年後のことと言われると、わたしたちは安心してしまうようなところがありますが、それはやはりわたしたち人間の「エゴ」のなせるわざでしょう。30年先、40年先は、わたしたちの子どもや孫の世代が生きる時代です。その時代に、生物が生きることのできる環境を残すことは、現代を生きているわたしたちの、必ずや果たすべき責任といわなければなりません。
★聖書の説く「愛」とは、自分(=エゴ)を自分の中心からズラして自分の外側に置き、他者に触れさせるということではないかと思います。「わたしが信じる」、「わたしがわたしを救う」という「わたし中心」から、「神がわたしを知る」「神がわたしを招く」というところに中心をズラすということです。教会は、「教会の伝道」「教会の発展」を目指してきましたが、これまでどれだけ、自らの中心をズラすことをしてきたか、問われるところだと思います。(大久保)
by oji-church | 2007-08-23 12:07 | 牧師からのメッセ-ジ
「他者の『弱さ』への敬意」

★「政府は再軍備するにあたり、戦争を目的とした攻撃用のいかなる兵器をも新たにつくる意図はなく、それとは反対にもっぱら防衛用の兵器に限定し、それによって平和の維持に資するつもりである」。
★近頃、日本国内で聞かれるような説明ですが、これは日本人の言葉ではありません。1933年にドイツの全権を掌握したヒトラーがその翌々年にドイツの再軍備を果たした際の演説だそうです(雑誌『世界』8月号「民主主義を殺さぬために」小田実より)。
★「平和」を語りながらも、「力」を志向するならば、それは必ず「平和」を損ない、弱い者を圧殺する「力」となり果てます。
★平和とは、むしろ弱い立場に置かれた人々の、その「弱さ」に対する「敬意」からこそ、生み出され、創り出されてゆくものではないかと思います。
★自分の「弱さ」を盾にするのではなく、他者のより一層の「弱さ」に敬意を示し、そこに寄り添ってゆくような歩みをなしてゆけたらと思います。
by oji-church | 2007-08-16 13:37 | 牧師からのメッセ-ジ
「信仰は『呼びかけ』」

《ただ、主がめいめいに分け与えてくださったように、神がめいめいを招き、呼びかけてくださったように、そのように生きなさい》(コリントの信徒への手紙Ⅰ 7章17節私訳)
★聖書には「召し」というムズカシイ言葉が出てきます。この言葉のもともとの素直な意味は、「呼びかける」とか「招く」という意味です。
★信仰にはこの「召し」が何としても大事なことですが、そんなにムズカシく考える必要はありません。つまりは、「信仰」とは「呼びかけ」「招き」合う「関係の中」でこそ生きていくということに他なりません。
★神様から「さあ、一緒に生きよう」と呼びかけられ、それに応えて生きていくという生き方。信仰にあっては人間同士の関係も同様のものとなります。「してあげる」側と「してもらう」側ではなく、互いに「一緒に生きよう」「一緒にやろうじゃないか」と呼びかけ合う関係を形づくっていくことが大事なのでしょう。(大久保)
by oji-church | 2007-08-02 08:50 | 牧師からのメッセ-ジ