日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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「魂の自由」

★先週、「国民投票法案」が参議院でも可決され、ついに憲法を変えるための準備が整うことになりました。
★この法律が、ひたすらに憲法9条を変えて、戦争の出来る国に、日本を変えていこうとするためのものであることは明らかです。
★平和やいのちを守ろうとする働きは今、富と権力を目指す世界的な流れの中で、どんどんと敗れていっています。
★イエス様が働いたような、富や権力や武力を退けて、神様と人、人と人との結びつきに立脚して、いのちを守ろうとする働きは、必然的に、富や権力の前に敗れるものなのかもしれません。
★でも、わたしたちが本当にその気になるならば、富も権力も、決して破ることのできなものを、実はわたしたちは携えているのだと思います。それは、わたしたち一人一人の本当に深いところにある「魂の自由」です。
★でもこれは、本当にわたしたちが「その気」にならなければ、すぐに奪われてしまうものでもあります。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)というイエス様の言葉は、この「魂の自由」の消息を告げているように思います。(大久保)
by oji-church | 2007-05-22 12:19 | 牧師からのメッセ-ジ
「互いに迎え合う教会」(2)~聞くこと、受けとめること~

★教会といっても(いや、教会「だからこそ」かもしれませんが)、教会の中や教団の中には、人と人との間の「いざこざ」が幾つも存在しています。多くの場合、教会や教団の中のそうした人の間の「いざこざ」は、わたしたちの「聞く」力の欠如に起因しています。
★教会は往々にして、「神の権威」を盾にして、自分の意見を絶対視し、人の意見に耳を閉ざしてしまいがちな所です。「神の権威」とまではいかなくても「クリスチャンなのに……」という言葉でもって、相手の欠点を非難するのです(その時自分も「クリスチャンなのに」ということは忘れられています)。
★でも、どんな時にもまず「言葉」というものによく耳を傾けてみることは大事なことです。わたしたちは、しばしば人の言葉を聞いているようで、実は頭の中では自分の「気分」をもてあましていることが往々です。「自分と違う」ということが先に立ってしまって、聞いているようで聞いていないのです。
★でも、どんな意見も、実はみんなそれぞれ違っているのです。全く同じ気持ちの人というのはそうそういないものです。だから、意見を述べる時は、違う意見の人もいるということを前提としなければならないし、違う意見を聞くことで、自分の気持ちも変わってくることもあります。そして、その「変わる自分」を大切にするべきでしょう。
★そんなふうに、違う意見に耳を傾けつつ、人が互いに変えられていき、心通わせるようになる時が確かにあります。その時にわたしたちに働きかけている見えない力のことを聖書は「聖霊」と呼んでいるのです。そうした「聖霊」の働く場こそが、互いに迎え合う場なのでしょう。(大久保)
by oji-church | 2007-05-15 16:15 | 牧師からのメッセ-ジ
 「見張りのつとめ」

★わたしたち日本キリスト教団が教団議長名で1967年に出した「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」の中には、次のような文言があります。
★「『世の光』『地の塩』である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを内外にむかって声明いたしました。まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは『見張り』の使命をないがしろにいたしました」。
★聖書の神様は人間が思い高ぶりによって過ちを犯す時、人間に逆らって人間をいさめる神様です。キリスト者は、人間がその思い高ぶりによって過ちを犯す時、その神様に呼びかけられ、人間に逆らって人間をいさめる「見張り」の務めを託された存在でもあります。
★先週は憲法記念日がありました。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とある憲法は、人が人を威嚇し、人が人の命を奪う過ちに逆らう神様の思いに、やはり沿ったものでしょう。これがないがしろにされてきたこの60年間、わたしたちは「見張り」の務めを果たしてきたと言えるのだろうか、なんて考えていた先週でした。(大久保)
by oji-church | 2007-05-09 10:21 | 牧師からのメッセ-ジ
「互いに迎え合う教会」(1)

★先週開かれた教会定期総会において、今年度の王子教会の活動方針として「互いに迎え合う教会を形づくろう」という主題を決めました。
★もともと僕自身は、あんまりこうしたスローガンを前面に立てることは、あまりしてきませんでした。と言うのも、こういうスローガンを立てると、立てただけでもう「出来上がった」ような気分になってしまって、結局は「看板倒れ」に終わってしまうことがよくあるからです。
★でも、今回こうして主題を立ててみたのは、このことが教会という場にとって、とても大事なことだからです。
★「迎える」という言葉の中には、いろんな意味が込められています。まず第一に「あいさつを交わす」ということです。教会では「祝福」という言葉がよく使われますが、この「祝福」とは、平たい言葉で言えば、「あいさつ」に他なりません。
★あいさつは、人と人とが争わずに出会ってゆくために、きっと試行錯誤の中から生み出してきたものでしょう。何の気ない普段のあいさつの中にも、「わたしはあなたとは争いたくありません。なぜなら、わたしはあなたが好きだからです。どうか、共に生きる平和な関係があなたとわたしのまわりに形づくられますように」という祈りが込められているのだと思います。
★ですから、「互いに迎え合う教会」はまず、教会で出会う誰とでも、まずは「あいさつを交わす」ことから始めてゆきたいと思います。(大久保)
by oji-church | 2007-05-03 10:32 | 牧師からのメッセ-ジ