日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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M先生のこと

★去る2月15日、わたしが神学校で歴史神学を学んだM先生が天に召されました。昨年秋から入院しておられたことを知らず、その週の週明けに知人から知らされ、折しも15日に病院にお見舞いに行こうとしていた矢先でした。卒業後も先生のゼミに通い、細々ながらキリスト教史の勉強をしていましたが、今年度は教会の都合と重なり出席できなかった、その間の訃報でした。
★わたしに期待を掛けてくださり、卒業時には「これを翻訳しなさい」とドイツ語の教理史の本を手渡されました。最初の内は勇んで翻訳を始めたものの、だんだんと苦痛になり、やがて放り出してしまった。でも卒業から4年ほど経ってから、思い直して少しずつ翻訳を進め、ようやく完成させて先生に原稿を手渡した時には、卒業からすでに7年が経過していました。
★地味な先生でしたが、学生と一緒に学ぶことがお好きで、わたしはこの先生から、キリスト教の歴史を学ぶ意味を教えられました。
★生意気な神学生で「キリスト教の歴史になんて学ぶものはない」と思っていたのが、ひょんなことから歴史神学のゼミに入ることになり、右も左も分からないダメ学生であったにも関わらず、君は歴史を勉強しなさいと教え諭して下さいました。
★キリスト教史を学ぶ中で、そこには「人間の過ち」がうずたかく積み重なっていることを学びました。そして何よりも、同じ過ちを自分自身も犯しいることを学びました。しかし、それにもかかわらず、その歴史を越えて、イエス様の宝のような息づかいが現代に至るまで響いていることを学びました。(大久保)
by oji-church | 2007-02-28 15:59 | 牧師からのメッセ-ジ
「『健全さ』について」

★過日、厚生労働大臣が「女性は子どもを産む機械」と発言したことが話題になっています。大臣は平謝りの姿勢ですが、辞任要求に屈する気配はありません。厚労相はその後、「二人以上子どもを持ちたい」という若者を「健全」と評し、こちらも批判を浴びました。しかしこの批判に対しては「言葉狩り」との反批判もちらほら聞こえます。
★しかし「健全」発言の方が、より注意しなければならないとわたしは考えます。「機械」発言はあからさまに差別を含む発言ですが、「健全」発言は、同じ感覚を温存したまま、オブラートに包んだものと言えます。
★わたしたちは、しばしば自分の感覚・志向に沿って、自分の気に入るものを「健全」と評し、それ以外のものを「不健全」と決めつけるものです。しかし、「健全」とは、英語で言えば「ホール(whole)」という言葉で表されるものでしょう。つまり「全部を含んだ、欠けのない」という意味の言葉です。
★一人一人の人間は完全無欠ではありません。したがって「健全さ」とは、「あらゆる事情を持った人間全体を考慮した……」という意味で用いるべき言葉だろうと思います。
★「健全さ」という言葉を、自分の志向に合った一部の人や状態に用いるならば、それ以外の人や状況をこの世の外に突き落とすことになります。国の意向に沿わない人間をこの世の外に突き落としてしまおうというのは、今の政府が意図していることでもあります。だから厚労相を辞めさせるわけにはいかないのでしょう。
★やれるモンならおやりなさい。でも生命というのは、そんなことで済まされるものではありませんよ。(大久保)
by oji-church | 2007-02-20 14:42 | 牧師からのメッセ-ジ
「『共同体』というもの」

★1月26日(金)夕刻に北支区東京教区問題協議会があり、そこでわたしが発題をすることになりました。わたしたちの教会は日本基督教団という教団に所属しています。それぞれの教会別個に運営したっていいのに、その方が面倒もなく、自由じゃないか、と思われるかもしれませんが、わたしたちは個別の教会だけでなく、多くの教会が集まって「教団」というものを形づくっています(その中に「教区」があり、東京教区の場合、されに「支区」があります)。
★何のためにそうするのでしょうか。教団の規則の中では、「教区」とは「地域共同体」であると言われます。同じ教団や教区の中で、教会同士支え合っていくということ、それが「共同体」ということでしょう。聖書の中には、「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前は要らない』とも言えません」(Ⅰコリント12:21)という言葉がありますが、そのように違う者同士が集まって一つの生きた体を形づくるのが「共同体」というものです。
★けれども殊に東京の場合、共に支え合うべき教会同士が、しばしば互いに無関心であることが多いのです。人口が多いせいか、自分の教会だけで成り立ってしまうからです。さもなくば、勢力を持った者が弱い者を支配するという関係に陥ってしまいがちです。
★教会ばかりでなく、いまのわたしたちを取り囲む社会全体が、隣人に対して無関心、という状況でしょう。しかし、教会はイエス様を頭(かしら)として、教会同士互いに違いが有りながらも対等な関係で、しかも無関心ではなく、支え合う関係を形づくるべく呼びかけれている場所です。その中から、本当にわたしたちが「生きる」ということの意味が見いだされるのではないでしょうか。(大久保)
by oji-church | 2007-02-01 10:10 | 牧師からのメッセ-ジ