日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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「教育の力にまつべきもの」

★先々週、教育基本法改悪案が衆院を通り、先週は参議院での審議が始まりました。首相は「戦後教育の何が問題だったのか」との質問に「自分だけが良ければ、物事に勝ってしまえばそれで良いという情報も氾濫している」と答えました。
★教育基本法を巡るタウンミーティングの「やらせ」を見れば、「自分だけが良ければ、、物事に勝ってしまえば」というのは、明らかに今の政府与党のやっていることではないかと思うのですが…。こんなことを平気で言い切ってしまえるのもやはり「物事に勝ってしまえば」と思っている証拠です。
★現行の教育基本法の冒頭にはこんな言葉があります。「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」。
★「教育の力にまつべきものである」という一言は、まさに「物事に勝ってしまえば」というのとは逆の「待つ」姿勢を示すものです。これをないがしろにしてきたのは、戦後の政府与党の政治家たちに他なりません。
★人間や社会の成熟を「待つ」ことが出来ず、競争に駆り立てて、こぼれ落ちた者は切り捨てていくということがますますはびこっている今の時代です。それをなお推し進めようというのが、今度の教育基本法改悪に他なりません。
★こんな「ウソ」がまかり通る国が、教育を云々する資格なんてないだろうと思います。本当に怒っており、悲しんでいます。どうしたらいいのでしょうか。(大久保)

(写真は旧古河庭園のバラ)
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by oji-church | 2006-11-29 15:20 | 牧師からのメッセ-ジ
発想力の貧困

★最近政府与党の閣僚の間から日本国内でも核についての議論を、という論調が出てきてメディアは大騒ぎになっています。いずれも朝鮮政府の行ったミサイル発射や核実験に触発されての発言です。
★もともと国々が競って核兵器を持とうとするのは、冷戦中に米ソがそれぞれに核兵器を配備し、「核抑止論」というものを主張したことに端を発しています。「核抑止論」とはつまり、国同士が戦争になってたとえ核兵器を用いたとしても、すぐに相手国もまた核攻撃を行い、双方が壊滅的打撃を受けることになる。そのような想定のもとには、互いに核戦争を起こせなくなるという論理です。ちょうど互いに鉄砲を突きつけ合って身動きできなくなっている状態です。
★その一方で、これまで従来の核保有国は「核拡散防止条約(NPT)」というものを推し進めてきました。これは自分たちの国以外は核兵器を持たせないという意図の下に作られた条約で、日本もこの条約を批准しています。
★けれど、思うに「核抑止論」とNPTはもともと矛盾しています。本当に「核抑止論」によって戦争を防止するためには、すべての国が核兵器を持たなければならないからです。
★でもその一方で、すべての国が核兵器を持ってにらみ合って身動きがとれなくなっている世界とは、何と「病んだ」世界でしょうか。日本も核武装を、という論議は、そうした「病んだ」世界に日本も足を踏み入れるということに他なりません。所詮、兵器で戦争を防止しようとする論理自体が間違っているのです。
★日本は元来、唯一の被爆国という経験、そしてすべての武力を放棄すると語る憲法9条という最大の「武器」を持っているでしょうに。それを使わずに核兵器などに頼ろうとするというのは、「発想力の貧困」と言わざるを得ません。(大久保)
by oji-church | 2006-11-21 11:14 | 牧師からのメッセ-ジ

秋が来た

昼食に外に出た帰りがけに、教会事務所近くの「名主の滝公園」に、何となく寄ってみました。カエデの葉はまだ青々としていました(「名主の滝」のカエデの見頃は12月上旬頃だそうです)が、少しずつ木々の葉は色づいて、秋の深まりを感じさせられます。枯れていく木々の葉が、最後に美しい色を見せてくれるというのは、思えばジンとされられますね。(大久保)
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by oji-church | 2006-11-17 13:40 | みちばたの教会
★王子教会の礼拝の説教で丸2年をかけてマルコによる福音書を読んできました。今日でマルコによる福音書を全部読み終えることになります。改めて読み通してくる中で、新たに気づかされたこともありました。
★マルコによる福音書は他の福音書に比べて、イエス様の「言葉」よりも、その立ち居振る舞いに焦点が当てられていることが多いような気がします。それは無論、マルコが「Q資料」という(マタイやルカが持っていた)「イエス語録」を持っていなかったということに起因していますが、他の福音書に比べてイエス様が人に「触れる」仕草が目を引くのです。その辺がマルコによる福音書にはケッコウ特徴的です。
★聖書の語る「愛する」ということは、究極的に「触れる」ということにたどり着くのではないか、と思わされました。この辺はギリシア語で「愛」を示す、「アガペー」とか「フィリア」とか「エロス」といった言葉の意味の区別に絡んで、もっと深めるべきことだろうと思います(「触れる」愛は、「アガペー」よりも「エロス」に近いような気もするものですから)。
★ともあれ、聖書の語る「愛する」は「アガペー」であるとは一概に断言できないような気がしてきました(今回はチョットムズカシイ話になっちゃいましたね)。また今度機会があれば、説教でそんな話もしてみたいものです。(大久保)
by oji-church | 2006-11-14 13:34 | 牧師からのメッセ-ジ
文学の効用

★イランから来られた難民(申請者)の方とのつきあいから最近イランについての本をよく読んでいます。イランでは1979年のホメイニ革命以来、極端な宗教理解に基づいた宗教政治が行われて、とりわけ女性や子どもの人権が抑圧されていると言います。
★最近書店で大きく取り上げられている本に、かつてイランで英米文学を教えながら大学を追われ、アメリカに脱出した女性の書いた『テヘランでロリータを読む』(白水社刊、アーザル・ナフィーシー著)という本があります。革命以後、イランでは西洋の小説を読むことは、宗教の見地から「堕落」「背徳」と見なされるようになりました。その結果、そうした書物は発禁となり、大学で教えることも叶わなくなります。
★この本の著者は大学を追われた後、自宅で少数の女子学生達と秘密の読書会を始めます。そういう集会自体が危険視されている社会の中で。そこで彼女は文学というものの持つ意味について女子学生たちと考えていくのです。
★その中に、こんな言葉を見つけました。「すべての個人にはさまざまな面がある…人を判断するときはその人格のあらゆる面を考慮に入れなければならない。文学を読むことで、人は初めて他人の身になり、時に矛盾する他者のさまざな側面を理解することができ、人に対してむやみに無慈悲にならずにすむ。文学という領域の外では、個人の一面だけが示される。だが、彼らの別の面も知れば簡単には殺せなくなる…」。文学だけでなく、わたしたちが聖書を読むことで受けとめるべきものも、実はこういうことなのかもしれないと思わされました。(大久保)
by oji-church | 2006-11-01 15:40 | 牧師からのメッセ-ジ