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カテゴリ:牧師からのメッセ-ジ( 508 )

差別からの解放を祈る

★先々週の土曜日に、牧師が委員を務める東京教区部落解放5支区代表者会主催の「部落解放祈りの日礼拝」という催しがありました。
★部落差別というのは、目に見える形ではなくなったかに思えます。ことに東京のような匿名性の高い場所では、もはや問題にさえならないようにも思えます。
★でも、考えてみてほしいのは、部落差別というのは、もともと目に見える形での「違い」に基づく差別ではないということです。差別はどの差別でもそうですが、「差別される側」に原因があるのではなく、「差別する側」の意識に原因があるのです。
★教会の部落解放の働きに関わる中で、多くの人たちが意識せず「部落」というものにマイナスのイメージを持っているのに出くわしてきました。そのようなマイナスのイメージを植え付けられてしまっているということ自体、「差別する側」の人も、「差別」というものの犠牲者であるといってよいでしょう。
★「差別」からの解放を祈るというのは、もちろん「差別される側」の人が差別を受けない未来を祈ることでもありますが、もう一つ大事なことは、知らず知らずの内に、「差別する心」を植え付けられてしまっているわたしたちが、そうした「差別する心」から解放されることを祈るということでもあります。
by oji-church | 2006-07-04 17:30 | 牧師からのメッセ-ジ
教育基本法「改正」案を読む(4) 「態度を養う」を考える

★先日、子どもの学校の授業参観があって行ってきました。内容は「道徳」です。帰ってきてから、子どもと授業の話をしました。すると子どもがおもしろいことを言います。「道徳の時間は、みんながブリッ子になる時間」。もしかしたらウチの子だけがヒネクレていて、そんなことを言うのかもしれませんが、ちょっと考えさせられました。当日の授業の内容は、「自分のいのちを支えていてくれるものに思いを巡らせる」というような内容でした。皆それぞれに「両親」とか「ご先祖」とか言っていた。ウチの子どもに言わせると、道徳の時間は、みんながいかにも「正しい」ことを口を揃えて言う時間だ、と。普段はそんなこと、考えても、してもいないのに、ということです。
★政府与党が出している教育基本法「改正」案には、「教育の目標」としてゴタゴタと、いくつもの「徳目」が掲げられています(数えてみると、21項目にものぼります)。「一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。 二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。 三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。 四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。 五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」。
★いっぱいありすぎて、読んでいるだけで頭が痛くなりそうです。この基本法が可決承認されれば、おそらくこれらの「徳目」のいちいちについて、子どもは「評価」にさらされることになるでしょう。実際に、「愛国心」を通知表で評価する学校もすでにあるのです。
★気になるのは、「態度を養う」という言葉が繰り返し用いられていることです。「態度」が「評価」されることになれば、子どもは必ず「態度」を装うことになります。国や学校の求める「子ども」像に自分をはめ込み、自分自身を押し隠すことを、子どもたちは強いられることになります。ただの「ブリッ子」のうちはいいのですが、やがて自分自身を失った子どもたちは、どうなるのでしょうか。そら恐ろしい気がするのは、わたしだけでしょうか。
by oji-church | 2006-06-21 11:31 | 牧師からのメッセ-ジ
教育基本法「改正」案を読む(3) 「国を愛する」を考える③

神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものではない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:20~21)
「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」(フィリピ3:20)


★「国」=「国家」というのが、あくまで富を集めてきて、それを分配する目的で、人為的に造られたものだとするなら、「国」自身が「国を愛せよ」と言い立てることの目的は、やはりあくまで「国」に富を集めるための侵略や収奪・搾取に人々を駆り立て、人々に犠牲を強いることより他にはありません。どんなにそれを「文化」や「伝統」で覆い隠そうとしても、「国」が自ら言い立てる「国を愛する」ということは、やがて人々を戦争や競争に駆り立てることに、必ず結びついていきます。
★それでは、「国」を愛することは、どうしたって不可能なのでしょうか。それでも「国」を愛せる可能性はあると思います。それは、あくまで「生身に触れ合う関係を大切にしていく」ということです。わたしたちが愛すべき人間同士の結びつきというのは、ある範囲を区切って「ここからここまで」というものではないのです。それよりもわたしたち一人一人が生きているその場で出会い、経験する結びつきそのものを愛するということです。
★「国」(=人々の結びつき)というのは、あくまで「あなたがたの間にある」と聖書は語ります。決して自分の生きる場をある「範囲」で区切らずに生きていくならば、わたしたちは様々な人々と出会い、触れ合うことになります。日本人もおり外国人もいます。よき伝統を分かち合う関係を持てることもあれば、かつてや今の日本の「国」の誤りを指摘する人もいます。でも、そういう出会いを一つ一つ、そのたびごとに大事にしていくということです。
★一つ一つの生身に触れる出会いをそのたびごとに大切にしていくことを通じて、初めてそこに「愛する」関係が生まれてきます。その場所こそが「わたしたちの本国」であるということ。決して「国」や「文化」や「伝統」が先にあるのではなく、わたしたちが国籍などに関わりなく、生身に触れる人間と人間の出会いを、そのたびごとに大切にしていく場所に、わたしたちが本当に愛する、わたしたちの「生き場」が生まれてくるということでしょう。
by oji-church | 2006-06-12 13:49 | 牧師からのメッセ-ジ
教育基本法「改正」案を読む(2)「国を愛する」を考える②
★「国」=「国家」というのは、あくまで富を集めてきて、それを分配する目的で、17~18世紀頃のヨーロッパで人為的に出来上がったものに他なりません。富を集めるためには、やはりそれをどこかから持ってこなければなりません。19世紀から20世紀前半にかけて、富は「帝国主義」という在り方によって、アジアやアフリカからヨーロッパ、アメリカ等に集められました。植民地とされたアジアやアフリカの人々は、これによって大変苦しめられたのです。
★日本はこの欧米の帝国主義の触発されて、明治維新を行い、遅ればせながら帝国主義に踏み出して、中国、朝鮮、台湾を始め、アジアへの侵略に乗り出していきました。そこでも多くの人々が日本による侵略によって、土地や故郷や家族や命を奪われて大いに苦しめられたのです。こうした国家の在り方は、現在も
★このように、あくまで富を集める目的で人為的に造られ、やがて侵略や搾取・収奪に至る「国家」というものからは、本来「愛する」というような情感は生まれてくるものではありません。
★第二次世界大戦後、こうした「国家」の暴走に一定の歯止めをかけるために、国際連合という組織が作られました。日本国憲法や教育基本法もまた、第二次世界大戦の痛切な経験への反省から、こうした「国家」の暴走への歯止めとして造り出されたものです。「国家」が侵略や搾取・収奪へと至らないために、日本国憲法は、世界に先駆けて「武力の放棄」を掲げ、教育基本法は、一人ひとりの人間を「国家」の侵略・搾取・収奪に巻き込まないために「個人の尊重」を掲げたのです。
★わたしたちが「おくにはどちら?」と聞かれた時に思い浮かべる自分の「故郷」なるものは、おそらくそうした「国家」とは違う在り方をしたものでしょう。互いの顔や風景が思い浮かべられる肌身に触れた関係のある場所のことです。ここからなら「愛する」という情感も生まれてくることもあるでしょう。
★ただし、人の「故郷」というのは、「国家」とはまた別に、様々な因習やしきたりに束縛された場所だったりもするので、必ず「愛する」という情感が生まれてくるものと決めつけることはできません。ただ「国家」というものからは本来、「愛する」という情感は決して生まれてくるはずもないのに対して、「おくに」と呼ばれる「故郷」からはそれが生まれてくる可能性はあるということです。(つづく)
by oji-church | 2006-06-08 09:13 | 牧師からのメッセ-ジ
教育基本法「改正」案を読む(1) 「国を愛する」を考える①
★いま、国会では教育基本法の「改正」の審議が始まっています。政府の「改正」案の中には、「教育の目標」として「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」という項目が記され、民主党案の前文には、もっとはっきりと「日本を愛する心を涵養する」という文言が見られます。現行の教育基本法には、こうした「国」というものを「愛する」という文言はありません。代わりに「個人の尊厳を重んじ」(前文)、「真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび」(教育の目的)といった言葉が見られます(「改正」案では、「教育の目的」の項目の「個人の価値をたつとび」という文言は、巧妙に削られています)。
★「人が自分の国を愛するのは、ごく自然なことである」とは、この「改正」に懐疑的な人の口からも出る言葉です。しかし果たして本当に、自分の所属する国を愛することは、自然なことなのでしょうか。
★わたしたちの語感では「くに」という言葉には、二つの意味が含まれています。「おくにはどちら?」と聞かれたら、「上州」とか「九州は熊本」とか答える人もいるでしょう。もう一つは「国=日本」という意味です。確かに最近は「くに」といえば後者の方が一般的になりつつあるかもしれません。
★しかし「国=日本」というのは、これはかなり最近に、つまり明治維新以後、国家の政策によって創り出された観念です。それまでは「上州」とか「九州は熊本」とかいう感覚の方が一般的でした。というのも、もともと「くに」という言葉には、自分の肌身に触れて、生活の物資(モノ)や気持ちのやりとりをする場所という語感が含まれていたからです。「愛する」という情愛が自然と生まれてくるのも、そもそもは、そのように肌身に触れて気持ちやモノのやりとりがなされる場所に他なりません。
★これに対して「国=日本」という考え方は、もともとがそのような肌身に触れた気持ちやモノのやりとりのために創られたものではないのです。明治政府はまず、「富国強兵」「殖産興業」という看板を掲げました。これは、力づくでもどこからか「富」をかき集めて、あるいはブン取ってきて、その分け前にあずかろう、ということです。
★これは何も戦前の日本だけがやっていたことではありません。それは17~18世紀頃の西欧に生まれた「国民国家」という、人間の集まり(共同体)の一つの形態です。19世紀になると西欧諸国はアジアやアフリカに乗り出していってこの「富のかき集め・ブン取り」を始めます。これに触発されて、日本もまた、そのような「国」造りを始めたわけです。(つづく)
by oji-church | 2006-06-02 15:10 | 牧師からのメッセ-ジ
《ひだり手》       「弱い」言葉に耳を澄ませば
「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、…来たのである」(マルコ10:45)。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6~8)。


★宗教あるいはキリスト教を巡る言葉には、「荘厳」「厳格」「厳粛」「敬虔」「聖典」「正典」「真実」「真理」「伝道」…といった「強い」言葉がたくさん貼り付いています。これらは元来は、人間を遙かに超えた「神の強さ」を表す言葉だったのでしょうが、やがていずれもが、その宗教を司る、あるいはその宗教を信奉する「人間の強さ」を表す言葉になってゆきます。そうしてその強さは、人間の間で〈聖職者〉→〈信仰者〉→〈未信者〉という順に、強い方から弱い方へと序列化されていきます。キリスト教もやはり、そういう「強さの序列化」を長い歴史の中で形づくってきました。
★しかしキリスト教の一番最初の一粒であるイエス様の生き様、その中から響くわたしたちへの呼びかけは、むしろそうした「強い」言葉によって言い表される人間の「強さ」を、徹底して退けていく(拒否していく)闘いだったのではないでしょうか。試しにマタイ福音書の山上の説教からイエス様の言葉を拾ってみると、「心の貧しい人々…悲しむ人々…柔和な人々…」「地の塩、ともし火」「わたしたちに必要な糧…」「空の鳥、野の花」「パンを欲しがる自分の子ども…」等々。これらは当時の価値観から言えば徹底的に「弱い」言葉、「弱い」存在の羅列に他なりません。イエス様は「弱い」言葉を敢えて選び取ることで、人の世の序列化へと至る「強さ」を徹底して退けたのです。上のマルコ福音書の言葉の前にある「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない」という言葉がその辺りの消息を伝えています。
★教会にとって「信仰」の道筋というのは、この「弱い」言葉の響きにこそ、耳を澄ませていくことなのではないでしょうか。聖書の中にも「強い」言葉はたくさんありますが、上の二つの聖書の言葉は、「弱い」言葉の奥深くに隠された「かけがえのないもの」の在処を示しているように思います。「強い」言葉の方が耳に入りやすく、わたしたちはそれに心を奪われがちですが、むしろ「強さ」というものを徹底して退けて、「弱い」言葉にこそ深く耳を澄まし、その奥底に響く「かけがえのないもの」を見つけてごらん、というのが、神様からわたしたちへと託された、実はとても重い課題なのです。(大久保)
by oji-church | 2006-05-08 12:42 | 牧師からのメッセ-ジ
《ひだり手》  「教会」とは何なのか?(12) 「『従うこと』と『律法主義』」(4)
「だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るもの影にすぎず、実態はキリストにあります」(コロサイの信徒への手紙2:16~17)
★「キリストに従う」ということは、自由に向かって解放されていく歩みに他なりません。しかしひとたびわたしたちが、「キリストに従っていこう」と集まり、教会という場を形づくり始めると、上の聖書の言葉にあるような「食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のこと」といった慣習的な規則が次から次へと生まれてきて、それによって、わたしたちは自由を失ってしまうことがあります。
★人の集団というものは、規則を作りたがるものです。ひとたび人が集まって集団を形づくると、その集団はひとりひとりの人間の意図や発想を越えて、集団そのものを守ろうとして、やたらと規則や規制、慣習を生み出し、それを人にまもらせようとするのです。
★教会という人の集まった場所において、わたしたちはこのことに気をつけたいと思います。もちろん、規則なんて無くっていいというわけにはいかないでしょう。ユダヤ教の律法は規則ですが、「律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものです」(ローマ7:12)。しかし「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました」(ローマ7:7~8)という現実がわたしたちにはあります。
★むしろ教会は、規則を考えるとき、いつも「イエス様がどのように生きたか」を念頭に置き、そのことが実現するように工夫がされなければなりません。この「イエス様がどのように生きたか」をいつも念頭に置く、ということが、実は「キリストが頭(かしら)である」ということの意味なのです。
(大久保)
by oji-church | 2006-04-16 15:42 | 牧師からのメッセ-ジ
《ひだり手》            春が来た
★桜の花が咲き、ようやく春がやってきたという感じです。我が家では、昨年から猫(メス、1歳)を一匹飼っているのですが、それが春の到来と共に「さかり」がついて、エライ騒ぎとなっていました。夜な夜な「おゎんおゎん……」と鳴いて、クネクネして、見ている方もつらいです。萩原朔太郎という人の「猫」という、こんな詩を思い出します。「まっくろけの猫が二疋(ひき)、/なやましいよるの屋根のうえで、/ぴんとたてた尻尾のさきから、/糸のようなみかづきがかすんでいる。/『おわぁ、こんばんは』/『おわぁ、こんばんは』/『おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ』/『おわぁぁ、ここの家の主人は病気です』」。折しも春風邪を引いて二日寝込みました。
★人間はカレンダーを見て季節の到来を測りますが、うちの猫は、家の中に居るだけなのに、どうも体が季節の到来を感じ取るようです。自然の内に他の命と共に生きているということなのでしょう。人間はそういう、体が他の命と共に生きるという感覚を失ってしまっているのかもしれません。
★そんなことを考えていたら、八木重吉というクリスチャン詩人の詩の中に、こんな詩を見つけました。「万象」という題の詩です。「人は人であり/草は草であり/椎は椎であり/おのおの栄えあるすがたをみせる/進歩というようなことばにだまされない/懸命に 無意識になるほど懸命に/各々自ら生きている/木と草と人と栄えを異にする/木と草はうごかず 人間はうごく/しかし うごかぬところへ行くためにうごくのだ/木と草とには天国のおもかげがある/もううご
かなくてもいいという/その事だけでも天国のおもかげをあらわしているといえる」。
★キリスト教はかつて、動物や草木には魂がないということを公式見解としましたが、そのことで、命というものへのまなざしを相当に貧しくしてしまったように思います。イエスやパウロの言葉にはしかし、人間も被造物として動植物と共なる魂を生きるものであることを思わせる言葉があります。
★今年に入って、相次いで二人の教会の友が天に召されました。「もううごかなくていい」場所へと召されたお二人の魂を思う春、同じ一つの魂を万象が共に生きる「天国のおもかげ」に触れる気がします。(大久保)
(写真は、近くの音無川の桜です)
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by oji-church | 2006-04-11 22:29 | 牧師からのメッセ-ジ