日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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カテゴリ:牧師からのメッセ-ジ( 513 )

★今年一年をふり返ると、いろいろなことがありました。ついに教会堂の建設に着工した年、というのが、王子教会にとっては一番大きなことだったと言えるでしょう。
★わたし自身にとって今年は、あまりおめでたい話ではありませんが、思えば4度の葬儀を行った年となりました。これまで一年の内に、こんなに葬儀を行ったことはありませんでした。
★ふと思うと、かつて、まさか自分が人を天に送る仕事をすることになるとは、夢にも思っていなかったことに気付きます。しかし、こうして葬儀を重ねて執り行う内に、人の命と死ということに、自分なりにやはり一定の「決着」とでもいうものを持っていなければ、これは立ちゆかないぞ…、という気がしてきました。
★しかし、死んだことのないわたしが、命や生はともかく、死について「決着」などというものを持つことは、なかなか難しいことだとも思わされます。そんなことを考えながら、人を天にお送りする仕事を重ねてきて、思うようになってきたのは、実は「死」と「生」とは、そんなに離れたものではないのじゃないか、ということです。
★それは、わたしたち生きている人間からすると、そんなに簡単に「分かる」ことのできるものではないのだけれども、生と死とは、必ずどこかで繋がっていて一緒にあるものなのだということを、心のどこかで感じ受けることができるようになった、というのが、わたしにとっての今年の収穫なのかもしれません。
★では、そこに立って「いま生きている命を愛するとは?」という問いが、これから考える課題であるようにも思います。(大久保)
by oji-church | 2007-01-05 13:55 | 牧師からのメッセ-ジ
★今年も残り少なくなってきました。教会を出て、岸町の仮事務所で仕事をするようになってから、もう4ヶ月が過ぎました。暑いさなかの引っ越しから、いまはもう、暖房が無くては居られない寒さになってきました。
★かつて東京から千葉に引っ越した時、建て込んだ町中で生まれ育ったわたしには、田舎の広い空が慣れなくて落ち着かない気分を味わいました。2年前に東京に出てきた時には、今度は東京の空の狭さにウンザリするような気持ちを味わいました。
★いまようやく狭い空にも馴染んできたような気がします。岸町で仕事をするようになって、まずやっかいだったのは、車の出し入れ。前と後ろを線路と坂に挟まれた町で、事務所はこの坂の下なのに、あるいはこの線路の向こうなのに、グルッと遠回りをしなければならないということが多々あります。自転車でも事情はあまり変わりません。急な坂を上るのはしんどいし、階段や陸橋も上り下りできません。
★そこで結局自分の足でテクテク歩くことになりました。そうしてゆっくり歩いてみると、近所の名主の滝公園の緑や民家の軒先の植木、そこら中を闊歩しているネコたちの様子が目にとまり、ひととき心を和ませてくれます。
★気まぐれに横道に入ってみると、ズンズン進んでいった末に、結局行き止まり、なんてこともしばしば。それもご愛敬です。子どもの頃、同じように込み入った町中で、ぜったいに子どもしか通らないような家と家の隙間を縫って、遊んでいた頃のことも思い出されてきました。

名主の滝の紅葉が盛りです。
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by oji-church | 2006-12-12 15:16 | 牧師からのメッセ-ジ
「教育の力にまつべきもの」

★先々週、教育基本法改悪案が衆院を通り、先週は参議院での審議が始まりました。首相は「戦後教育の何が問題だったのか」との質問に「自分だけが良ければ、物事に勝ってしまえばそれで良いという情報も氾濫している」と答えました。
★教育基本法を巡るタウンミーティングの「やらせ」を見れば、「自分だけが良ければ、、物事に勝ってしまえば」というのは、明らかに今の政府与党のやっていることではないかと思うのですが…。こんなことを平気で言い切ってしまえるのもやはり「物事に勝ってしまえば」と思っている証拠です。
★現行の教育基本法の冒頭にはこんな言葉があります。「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」。
★「教育の力にまつべきものである」という一言は、まさに「物事に勝ってしまえば」というのとは逆の「待つ」姿勢を示すものです。これをないがしろにしてきたのは、戦後の政府与党の政治家たちに他なりません。
★人間や社会の成熟を「待つ」ことが出来ず、競争に駆り立てて、こぼれ落ちた者は切り捨てていくということがますますはびこっている今の時代です。それをなお推し進めようというのが、今度の教育基本法改悪に他なりません。
★こんな「ウソ」がまかり通る国が、教育を云々する資格なんてないだろうと思います。本当に怒っており、悲しんでいます。どうしたらいいのでしょうか。(大久保)

(写真は旧古河庭園のバラ)
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by oji-church | 2006-11-29 15:20 | 牧師からのメッセ-ジ
発想力の貧困

★最近政府与党の閣僚の間から日本国内でも核についての議論を、という論調が出てきてメディアは大騒ぎになっています。いずれも朝鮮政府の行ったミサイル発射や核実験に触発されての発言です。
★もともと国々が競って核兵器を持とうとするのは、冷戦中に米ソがそれぞれに核兵器を配備し、「核抑止論」というものを主張したことに端を発しています。「核抑止論」とはつまり、国同士が戦争になってたとえ核兵器を用いたとしても、すぐに相手国もまた核攻撃を行い、双方が壊滅的打撃を受けることになる。そのような想定のもとには、互いに核戦争を起こせなくなるという論理です。ちょうど互いに鉄砲を突きつけ合って身動きできなくなっている状態です。
★その一方で、これまで従来の核保有国は「核拡散防止条約(NPT)」というものを推し進めてきました。これは自分たちの国以外は核兵器を持たせないという意図の下に作られた条約で、日本もこの条約を批准しています。
★けれど、思うに「核抑止論」とNPTはもともと矛盾しています。本当に「核抑止論」によって戦争を防止するためには、すべての国が核兵器を持たなければならないからです。
★でもその一方で、すべての国が核兵器を持ってにらみ合って身動きがとれなくなっている世界とは、何と「病んだ」世界でしょうか。日本も核武装を、という論議は、そうした「病んだ」世界に日本も足を踏み入れるということに他なりません。所詮、兵器で戦争を防止しようとする論理自体が間違っているのです。
★日本は元来、唯一の被爆国という経験、そしてすべての武力を放棄すると語る憲法9条という最大の「武器」を持っているでしょうに。それを使わずに核兵器などに頼ろうとするというのは、「発想力の貧困」と言わざるを得ません。(大久保)
by oji-church | 2006-11-21 11:14 | 牧師からのメッセ-ジ
★王子教会の礼拝の説教で丸2年をかけてマルコによる福音書を読んできました。今日でマルコによる福音書を全部読み終えることになります。改めて読み通してくる中で、新たに気づかされたこともありました。
★マルコによる福音書は他の福音書に比べて、イエス様の「言葉」よりも、その立ち居振る舞いに焦点が当てられていることが多いような気がします。それは無論、マルコが「Q資料」という(マタイやルカが持っていた)「イエス語録」を持っていなかったということに起因していますが、他の福音書に比べてイエス様が人に「触れる」仕草が目を引くのです。その辺がマルコによる福音書にはケッコウ特徴的です。
★聖書の語る「愛する」ということは、究極的に「触れる」ということにたどり着くのではないか、と思わされました。この辺はギリシア語で「愛」を示す、「アガペー」とか「フィリア」とか「エロス」といった言葉の意味の区別に絡んで、もっと深めるべきことだろうと思います(「触れる」愛は、「アガペー」よりも「エロス」に近いような気もするものですから)。
★ともあれ、聖書の語る「愛する」は「アガペー」であるとは一概に断言できないような気がしてきました(今回はチョットムズカシイ話になっちゃいましたね)。また今度機会があれば、説教でそんな話もしてみたいものです。(大久保)
by oji-church | 2006-11-14 13:34 | 牧師からのメッセ-ジ
文学の効用

★イランから来られた難民(申請者)の方とのつきあいから最近イランについての本をよく読んでいます。イランでは1979年のホメイニ革命以来、極端な宗教理解に基づいた宗教政治が行われて、とりわけ女性や子どもの人権が抑圧されていると言います。
★最近書店で大きく取り上げられている本に、かつてイランで英米文学を教えながら大学を追われ、アメリカに脱出した女性の書いた『テヘランでロリータを読む』(白水社刊、アーザル・ナフィーシー著)という本があります。革命以後、イランでは西洋の小説を読むことは、宗教の見地から「堕落」「背徳」と見なされるようになりました。その結果、そうした書物は発禁となり、大学で教えることも叶わなくなります。
★この本の著者は大学を追われた後、自宅で少数の女子学生達と秘密の読書会を始めます。そういう集会自体が危険視されている社会の中で。そこで彼女は文学というものの持つ意味について女子学生たちと考えていくのです。
★その中に、こんな言葉を見つけました。「すべての個人にはさまざまな面がある…人を判断するときはその人格のあらゆる面を考慮に入れなければならない。文学を読むことで、人は初めて他人の身になり、時に矛盾する他者のさまざな側面を理解することができ、人に対してむやみに無慈悲にならずにすむ。文学という領域の外では、個人の一面だけが示される。だが、彼らの別の面も知れば簡単には殺せなくなる…」。文学だけでなく、わたしたちが聖書を読むことで受けとめるべきものも、実はこういうことなのかもしれないと思わされました。(大久保)
by oji-church | 2006-11-01 15:40 | 牧師からのメッセ-ジ
「ボーッとしながら書いてます」

「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である」(マタイ6:34)

★こういう週報などを準備作成しながら、調べ物のためにたまたま開いたインターネットのホームページなどに見入ってしまい、いつの間にか時間も忘れてネット・サーフィンに夢中になってしまっていることがあります。一人で仕事をしているので誰も止めてくれません。後で、「なんて時間を無駄にしてしまったのか!」と悔やむことしきりです。
★先週この欄でご紹介した加賀乙彦さんの『悪魔のささやき』という本では、人を魅了して自滅へと追い込んでしまう「悪魔のささやき」は、そうしたボーッとした心の状態に入り込んでくるといいます。
★牧師という仕事は、忙しいように見えて、結構ボーッとしている時間もあります(ボクだけかな?)。説教の準備に行き詰まったり、こうした書き物に書きあぐねていたりする時。確かにそういう時には、世間に満ちあふれる様々な誘惑に負けて、魅入られてしまうことが多いようにも思います。
★加賀氏は、見聞を広く持ち、自分自身の「個」をしっかり持つことによって、そうした「悪魔のささやき」を避けることを説いていますが、人間なかなか疲れてしまう時もあるものです。そして、時にはボーッとしている時に、新しい展望が開けて来たりすることもあります。人間の「自覚」や「意識」などというものはそんなに堅固なものではないということを、まず分かっていなければならないのかもしれません。
★キリスト教は、「目を覚ましていなさい」ということを強調して、人間の「意識」に訴え続けてきましたが、イエスの訴える「信仰」というものは、どうももうちょっと深いところにあるようにも思えるのですが、どうでしょうか。ボーッとしながら、何に向かって心を開いていくかが大事なような気もします。上のイエスの言葉はその辺りの消息を伝えているようにも思えます。(大久保)
by oji-church | 2006-10-04 15:28 | 牧師からのメッセ-ジ
「悪魔のトン走」

「汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ」。(マルコ5:12~13)

★最近、作家の加賀乙彦氏の『悪魔のささやき』(集英社)という新書版の本を書店でたまたま見つけて、新書に似合わないその題名にひかれて買ってきて読み始めました。
★加賀氏は犯罪心理学を研究する精神科医でもあり、多くの死刑囚との対話も重ねてきました。凶悪そうに思える殺人犯が実は多くの人とさほど変わりなく、それが「まるで悪魔にささやかれたように」殺人を犯してしまったと言うのだそうです。そうしてそうした「悪魔のささやき」は、必ずしも一人の人間だけではなく、一度に大勢の人間に「パッと同時に働きかけることがある」とも言います。
★かつて日本全体が沸き返った戦争もまた、そうした「悪魔のささやき」により引き起こされたものと言えなくもない。そういう大衆心理に働きかける「悪魔のささやき」に弱いのが日本人の特徴とも書いています。
★最近、自民党の総裁選挙をわたしたちは目撃しました。各派閥が相乗りで一人の候補者を推し、圧倒的な票を獲得するのを目撃しました。それを見て悪魔が「豚に乗り移らせてくれ」と懇願し、湖の中へとなだれ込んで溺れ死ぬ上の聖書の場面を思い出しました。朝鮮への強硬姿勢や、憲法改正を第一目標として掲げていることで知られる議員です。豚の「トン走」は、まだまだこれから続き、その先に大きな災厄が待ち受けているようで、不気味な気がするのは、わたしだけでしょうか。(大久保)
by oji-church | 2006-09-26 15:33 | 牧師からのメッセ-ジ
「復活としての未来」

★教会建てかえの工事も始まると早いもので、もう牧師館と教会堂の奥の部分はすっかり解体されてしまいました。礼拝堂のある前面の部分も囲いに覆われて、見えなくなりました。右の表紙の絵に描いた教会堂の建物は、この世では見られないものとなりました。
★なんだか少し残念に思う気持ちもあります。「もったいない」という気持ちもあります。そういう気持ちは後ろ向きのような気もしますが、でも大切にもしたいものです。
★古くなったものを愛おしむ気持ちはやはり大事なものでしょう。大切なのは、その気持ちを持ち続けることなのかもしれません。
★思えば、聖書の告げるイエス様の復活などというのも、気持ちとしてはもともと後ろ向きなものだったのかもしれません。何しろ十字架の上であからさまに殺されたイエス様をいつまでも思い続ける中で起こったことなのですから。
★でも、むしろ弟子たちがそれを思い続けたからこそ、復活の出来事は起こったのだと言えるかもしれません。しかもマルコ福音書に登場する墓場の天使が言うのは、「ガリラヤに行きなさい。そこで復活のイエス様と出会える」ということでした。
★ガリラヤといえば、それこそずっと始まり、イエス様の活動の出発点でした。そんな前にまで遡ってふり返るというのは、後ろ向きといえば後ろ向きです。でも後ろをふり返り歩んできた道を大切にしながら前に向かって進んでゆくとき、わたしたちは単なる「未来」ではない、「復活としての未来」を生きることになるのでしょう。王子教会もそんな「復活としての未来」を待ち望んでゆきたいと思います。
by oji-church | 2006-09-20 13:12 | 牧師からのメッセ-ジ
 もうテレビニュースは見ない!?

★先週は、「ある家の人々」の間に子どもが生まれたという話題で世間は持ちきりになりました。テレビをつけると、どのニュース番組も8割方の時間をその話題に割いています。日本人の「右へならえ」もここに極まれりという感じです。
★だんだん腹が立ってきました。先週生まれた子どもは、他にもたくさんいたはずです。そして、先週亡くなった子どももいたことでしょう。また先週、子どもが出来ず、悩んだ夫婦もいただろう。しかしテレビをつければ、どこのチャンネルでも、この「ある家の人々」に子どもが出来たというニュースだけが大映しに出てきます。でも、画一的な報道を批判する声はどこからも聞こえてきません。これはもう国を挙げたマインドコントロールといってよいでしょう。
★思えば、最近は普段からテレビのニュースといえば、どの局も世間の耳目を引く、人の表面的な関心や興味を煽るばかりの報道を、延々と垂れ流しているように思います。でもその陰で、人知れず苦難や不安や悩みにさいなまれている人たちが、この国にはどれほど沢山いることでしょうか。
★先々週、オリンピック候補地を福岡と競った東京都知事が、福岡を応援していた在日韓国人の大学教授を指して「怪しげな外国人」と発言しました。ほとんど報道されていませんが。
★大々的に報道される「ある家の人々」の子どものニュースを聴きながら、知り合いのフィリピン人の子どものことを思いました。かたや国を挙げて祝福される子どもの誕生と、かたや日本に暮らしているだけで犯罪者のように扱われ、貧困におとしめられる家族の子どもと、そのいのちに何の違いがあって、この境遇の差が生まれるのでしょうか。「貴あれば賤あり」です。そういう序列=差別の社会の価値観を、わたしたちは知らず知らずのうちにメディアによって植え付けられてしまいます。だからもう、テレビニュースは見たいと思いません。(大)
by oji-church | 2006-09-15 17:01 | 牧師からのメッセ-ジ