日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


by oji-church
プロフィールを見る
画像一覧
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

カテゴリ:牧師からのメッセ-ジ( 501 )

 「心の貧しい者は幸い?」

〈心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。〉(マタイによる福音書5章3節)。

★大塚久雄さんという社会経済学者がいました。無教会派のクリスチャンだった方ですが、その人が今から50年前、「生活の貧しさと、こころの貧しさ」という題で講演をしています。
★「生活の貧しさ」というのは、だれでもすぐに分かるように経済的な貧しさです。では「心の貧しさ」って一体何なのでしょうか。普通、日本語の感覚では「心が貧しい」と言うと、「人にやさしくない人」「心が狭く、意地汚い人」のことを言うように思います。けれども大塚さんがこの講演で言っているのは、聖書の語る「心の貧しい人々」というのは、いろいろな形で人が希望を失っている状態だということです。自分はもうダメだという絶望や、何をしてもうまくいかないという深い疎外感、差別やいじめなどによって、自分の人間としての価値、人としての尊厳を奪われている人のことを「心の貧しい人々」と聖書は言っているのだと語るのです。さらに、人は経済的な貧しさの中で、そういう「心の貧しい」状態にも落とし込められてしまう時がある。それはどれほどの苦しみであるか。しかし、聖書の語る福音というのは、まさにそういう状況にある人に向かって告げられているのだと言うのです。
★聖書の語る福音というのは、まず、そのような「心の貧しさ」から、人を解き放つものなのだ。「あなたは、ダメじゃない。あなたは大切な存在なんだ」と告げることによってです。そういう「心の解放」を与えられて、初めて人は、主体的に、つまり自分で自分自身を背負って、目の前の自分の利益不利益や、都合不都合に左右されずに、立ち上がっていくことができるようになるんだ、と大塚さんは語るのです。(つづく)
by oji-church | 2016-12-07 11:43 | 牧師からのメッセ-ジ
「ちゃんと生きていますか?」

〈死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ〉(マルコによる福音書12章25節)。

★牧師になって多くの人を看取ってきました。確かにどの人も、いまのところは、この世のどこかで再び出会うことはできないし、帰ってくることもありません。いまのところは、ですが。しかし、一人ひとりの方々のことを思い返すことは出来、その面影はわたしの胸に刻まれています
★そうしてお一人おひとりのことを思い返すたびに、何かわたし自身がその人から、問い返されているような気持ちがわき起こってきます。問い返すと言って、別に問い詰められるような感じではありません。ただ、「ちゃんと生きていますか?」「しっかり生きていますか?」と、そんなふうに問い返されているような気持ちがしてくるのです。お一人おひとり、すでに天に召された方たちから。それがもしかしたら、天に召された人たちが、「天使」としてわたしたちに告げている神様の思い、神様のみこころなのではないかと。
★亡くなった人を思い起こすことは、決してただ思い出に浸ることに終わるものではなく、その人の面影からもう一度、わたしたちに問い返されることでもあるのだと思います。「あなたはちゃんと生きていますか?」「しっかり生きていますか?」と。そう問い返されて、「もちろんだとも」と自信を持って答えられるようなわたしではありません。だけれども、そのたびに思いを新たにさせられることは確かです。
★亡くなった人たちは、「ちゃんと生きていますか?」とわたしたちに問いかけることを通じて、神様のみこころをわたしたちに伝え、わたしたちがこの地上で大事なことを大事にして生きるように導く、そんな天使の役割をいまも果たしておいでなのだと思います。その働きを無駄にすることなく、それに応えて生きていくものでありたいと思うのです。
by oji-church | 2016-11-24 11:42 | 牧師からのメッセ-ジ
「身勝手」民主主義?

★先週水曜日、「子ども食堂」を終えて家に帰ってテレビを点けると、アメリカの大統領選の結果が報じられていました。結果はトランプ候補の勝利でした。自国の一部の人々の不満を掻き集め、その身勝手を実現することを政策として掲げ、移民や少数者や、他国や対立候補に対して、また女性に対しても、口汚い侮蔑的な「言葉の暴力」をまき散らしてきた人物です(報道ではこれを「暴言」と揶揄していますが、それは具体的に人を傷つける力を持つものであり、本来、ただ「揶揄」して済まされるものではありません。ちなみにだからといってわたしが対立候補を絶対的に支持しているわけでもないのですが)。このような人物が支持を集めているのは、アメリカばかりではありません。日本でも同じ状況が広がっています。
★呆然とテレビを見ているとCMが始まりました。米大統領選挙を模して男女の候補者がやりあうパロディCMは携帯電話会社のものです。笑いを誘う意図があるのでしょうが、ぜんぜん笑えません。世界の将来に対する暗澹たる気持ちと、それでも笑いを誘って購買欲を煽るCMとのギャップに苦しみます。気付いたのは、世界がどうなろうとも、広告等に現れている「金を儲けろ」という欲望だけは、何事もなかったかのように身勝手に突き進んでいく、そんな世界にわたしたちは生きているということです。
★民主的な選挙によって当選した候補です。民主主義は本来、一部の人々の「身勝手」を抑制するための制度のはずですが、いつの間にか民主主義のただ中で、人々の身勝手が大手を振ってまかり通るようになりました。「人間は身勝手にばかり振る舞っていいものではない」という“自制”を欠いた時、民主主義の下であっても“多数”の「身勝手であっていい」という放埒によって、民主主義の機能は潰れていくのかもしれません。「強い者が富を得るのは自由だ」という新自由主義的“経済至上主義”の風潮こそが、そんな事態を招いていると思うのですが……ここで紙幅が尽きました。
by oji-church | 2016-11-15 18:26 | 牧師からのメッセ-ジ
教会の宣教の在り方を考える

★8度目になるオープンチャーチを催しました。教会員のみならず各所から多くの方が献品を寄せて下さり、教会員もそれぞれに力を尽くして盛り立て、切り盛りしてくださったことを心より感謝いたします。またこの間、オープンチャーチの実行委員長をずっと続けて負ってくださっているIさんにも感謝しなければなりません。とりわけ、それぞれ創立50年、20年になるいずみスイングオーケストラとゴスペルママの方々が、この小さな教会のために労を厭わず駆けつけてくださることは、本当に有り難いことです。
★今、教会の信徒が減少する状況の中で、教会が教会外の人々や地域の人たちとどのように関わりを持つのか、関わりの持ち方について、もう一度考えて見るべき時期なのかもしれない思わされました。ある会合で、ある教区の教区議長が言っていたことが思い返されます。その教区で、一つの教会が信徒の減少によりやむなく閉じざるを得なくなりました。信徒も牧師もいなくなった教会の解散手続きを教区議長が代わって進める中、その町の人たちが、教会が無くなることをまったく意に介していないことにショックを受けたと言います。教会が無くても町の人にとって何ら影響がない。教会は町の人たちとのつながりをまったく失っていたということです。
★キリスト教的な風土ではない日本の教会はこれまで、洗礼を受けてクリスチャン=教会員となる人の数を増やすことを最大の課題・関心事としてきました。それも必要なことかもしれませんが、キリスト教の「宣教」というのは本来、ただクリスチャン=教会員の「数」を増やすことではなく、聖書の語る福音を、この世の多くの人たちに指し示す=共有することでした。教会に連なっていない人たちの中にも、世に仕える働きをする中で、聖書の語る福音的な思いを胸に宿している人たちに多く出会ってきました。そうした人たちと「人間にとって本当に大切なこと」を共有して、教会外の人たちの「教会がここにあってほしい」という願いに支えられて、教会が続けられていくのが、「宣教」というものの大事な在り方なのかもしれません。
by oji-church | 2016-11-10 17:26 | 牧師からのメッセ-ジ
沖縄の基地建設と「わたしたち」

★大正めぐみ教会の上地武先生(沖縄出身)をお招きして一日修養会を開催しました。上地先生は、沖縄で辺野古や高江において強行されている基地建設の問題についてお話くださいました。先生は、日本の国土の0.6%の沖縄に米軍基地の74%が集中する沖縄の現状について、聖書の99匹の羊と1匹の失われた羊の譬えに寄せて、神様は1%の「失われた者」を見捨てないことを宣言されている。わたしたちキリスト者はその神様の呼びかけに応えていくことを求められている、とお話しされました。
★沖縄では本土の機動隊員が多数動員されて、現地での抗議行動を押さえつけて米軍基地建設が強行されています。抗議行動では機動隊員から殴打や首を絞められる等の暴行を受け怪我をする人も多数出ていますが、その責任は問われていません。一方、防衛省の職員に対して、抗議する中で腕をつかんだことが「傷害」「公務執行妨害」とされて、抗議活動参加者が逮捕される事態となっています。そんな中で本土の機動隊員から住民に対して差別的な罵倒が浴びせられる事件がありました。
★沖縄でそのような無法な弾圧が行われているにもかかわらず、本土の関心は薄くほとんど報道もされません。そこには自分たちの“安楽”のために、自分たちが負うべき負担=犠牲を押し付けるために、少数者を同じ人間として見ようとしない差別があると言わざるを得ません。機動隊員が吐いた罵倒は、本土に暮らすわたしたち自身が吐いたものであり、沖縄に強いている負担=犠牲はわたしたち自身が負うべきものだということを深く噛みしめない限りこの差別は無くならず、もっと多くの犠牲を要求する“化け物”に育っていくでしょう。それは、わたしたち自身が“化け物”になり果てるということです。そうならないために、沖縄の人たちの苦しみを他人事とせず、お互いを“人間”として、苦しみを無くしていくように思いを向け、声を挙げてくことが求められています。
by oji-church | 2016-11-02 20:22 | 牧師からのメッセ-ジ
「和解」と「嘲弄」(2)

★(承前)一人の人がすべての人に代わって人の苦しみを、人の苦労を背負う時、その大切さを理解せずに、「あんなことをしたって何にもならない」と嘲る人ばかりではない。神様は必ず、その姿に心打たれて、自分もまた、自分の安全、自分の幸福だけでなく、隣り人のために、この命を用いていく、そのようにして和解の務めを負っていくように呼びかけられていると感じ、気付かされて、立ち上がっていく人を、一人また一人と備えられる。それが教会の希望であったし、現に教会はそのように、一人また一人と、イエス様に従って、人の苦労を背負い、自分の命を隣人のために用いながら生きていく人を与えられてきました。それが教会の歴史です。
★いま、わたしたちの生きている世界は、いたるところで紛争と対立が巻き起こって、それを解決するのは武力や暴力しかないという論調が高まっています。しかし紛争や対立に対して、武力や暴力を用いることは何の解決ももたらさないことは、20世紀からの戦争の歴史を見れば明らかでしょう。本当の和解の出発点には、たとえ理解をされず、嘲られたとしても、他者のために、他者を愛して、他者の苦労を背負い、自分自身の小さな一つの命を他者に代わって用いようとする小さな一人の人の姿があるのです。神様がわたしたちに呼びかけているのは、その姿をわたしたちは嘲ることなく、その姿によって、自分のこの命にも、和解の務めが神様に呼びかけられていることに気付かされ、そして立ち上がっていくことなのでしょう。和解の出発点に立っている、他者のために生きる小さな一人の人の姿、世間的な目では、肉に従って見たとしたら見えないようなその小さな一人の人の姿を見失わずに、その人に従って与えられたこの命を大切に、また他者のために用いる歩みを歩んでゆきたいものです。
by oji-church | 2016-10-26 10:21 | 牧師からのメッセ-ジ
「和解」と「嘲弄」

〈一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです〉(コリントの信徒への手紙Ⅱ第5章14~15節)。

★北九州のバプテスト教会の牧師でホームレスの方々の支援に携わっておられる奥田知志さんという牧師さんがこんなことを仰っておられます。教会は「嘲弄教会」で行こうじゃないか、と。人から「教会は自分のためでなくて人のために、とか言ってホームレスを支援したりしてバカだね。あんなことやったって何にもならないのに。教会自体がつぶれそうなのに、人のためになんて、本当にバカだね」と、嘲られる教会であることを覚悟して、嘲られる教会であることに甘んじていこうじゃないかと。イエス様ご自身、十字架の上で「他人は救ったのに、自分は救えない」と嘲られたのだから。
★実際、そんな「自分のためでなく、人のために」なんてことをしたところで、何にもならないかもしれない。けれども、一人の人がすべての人に代わって人の苦しみ、人の苦労を背負う時、たとえ人からは理解されなかったとしても、実は見えないところで何かが変わっているんだ、神様との間にもう一度、出会いとつながりが回復されるんだ、なぜなら、わたしたちは一人ひとり違いと個性を持った個人として大切にされ、愛されると同時に、もともと、目に見えない「命のつながり」の中で生きているのだから。これが聖書が語る「和解の福音」というものです。(つづく)
by oji-church | 2016-10-18 18:06 | 牧師からのメッセ-ジ
信頼する関係へと招く神

〈目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。〉(コリントの信徒への手紙Ⅱ第5章7~8節)。

★人間が、人間として、本当に人間らしく生きていくために是非とも必要なものは、もしかしたら「信頼する関係」ではないでしょうか。それは目に見えるものではありません。ただ生き物として生きるだけなら、目に見えて手に取れる食べるものさえあれば、生きていけるでしょう。けれども、人間として人間らしく、ということはつまり、掛け替えのない存在として、わたしらしく、あなたがあなたらしく生きることができるためには、やはり目に見えない「信頼する関係」が是非とも必要なのです。そして、聖書が最初から最後まで、繰り返しわたしたちに呼びかけているのは、「信じなさい」ということです。
★目には見えない。手に触れることもできない。目に見える証拠もしるしもない、でも、確かな住みか、永遠の命が天国には備えられている。そう聖書は語って「信じなさい」と呼びかけて、わたしたちが人間らしく、自分らしく、掛け替えのない尊い存在として生きることができる者としようとしている神様、イエス様がおられることを示します。そのようにわたしたちを信じて呼びかける神様のまなざしから、つまりは天国からみた眼差しから、もう一度、自分自身の生き様を振り返って、自分に与えられたこの一生涯をかけて、神様、イエス様との間に、また、日々出会う一人ひとりの隣り人との間に、信頼し合い、呼び応える関係を形作っていくのが、いまここで、永遠の命は見えない中で、体を負って生きているわたしたちに求められているつとめなのでしょう。
by oji-church | 2016-10-12 16:50 | 牧師からのメッセ-ジ
見えないいのちの部分に

〈わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。……だから、わたしたち落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます〉(コリントの信徒への手紙Ⅱ第4章7~16節)。
★パウロは言います。人間というのは、脆く弱い「土の器」だけれども、その土の器の中に、人間は神様から、宝物を与えられているのだ、と。その宝物って何かと言えば、「神様の霊」だということです。神様の霊というのは、神様の命の息吹であり、また、わたしたちはただ独りぼっちで生きているのではなくて、神様から命を与えられて、神様から愛され、どこまでも大事にされて生きているのだということを知らせてくれる、目には見えない力のこと。そういう、喜ばしい、輝かしい宝物をわたしたちは、この弱く脆い命の中に与えられているんだ、ということです。
★わたしたちはこの世の中の流れの中で、目に見えるところだけで物事を判断し、価値付けすることに馴らされてしまっていて、このわたしたち一人ひとりの命の奥底に与えられている宝物に気づき、目を注ぐことを忘れてしまって生きています。
★歳を重ねて弱り、衰えていく姿を、ただただ死の暗い陰の中に降りていく惨めなものとしか感じられなくなっています。だけれども、わたしたちの命にとって、目に見える部分というのは実はほんのわずかなところなのではないでしょうか。いのちの奥底には、誰しもが、わたしたちの一生分以上の計り知れない大きなものが秘められているのではないか、ということを、聖書を読む中で感じさせられるのです。
by oji-church | 2016-10-06 09:50 | 牧師からのメッセ-ジ
覆いの掛かった世界で(2)

★(承前)まさにわたしたちは「福音に覆いが掛かっている」社会の中に生きているのではないかと思うのです。パウロは、そのようにわたしたちの社会が「福音に覆いが掛かっている」社会となっているのは、「この世の神が、信じようとしない人々の心の目をくらまし」ているからだと言います。「この世の神」って、一体どんな神でしょうか。それは、お金の力に依り頼もうとしたり、武力、武器の力に依り頼もうとしたり、そのように人間の創り出す力に依り頼もうとするわたしたちの心が創り出す、「偽物の神様」なのかもしれません。お金の力や、武器の力に依り頼んで、それを神様のように崇めようとするわたしたちの心が、わたしたちの目をくらましているんだ、と言うのです。
★聖書の一番最初には、このように書かれています。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた」。
★聖書には、神様自らが造られた命あるものに向かって、「見よ、それは極めて良かった」と喜びの叫びを挙げる場面が語られています わたしたちは今も、厳しい「闇」に向かってうち沈んでくような世の中に生きていますが、そのように闇のような世の中に生きているわたしたち自身のこの命には、神様から「見よ、それは極めて良かった」と呼びかけられているという光が、隠されているのだということを、改めて心に刻みたいと思うのです。そうして、わたしたち一人ひとりの、凸凹していて、失敗や惨めな経験やらを積み重ねているこのわたしたちのいのちが、覆いを取り除かれて、再び輝くように、神様は今も「闇から光が輝き出よ」と呼びかけておられる。その神様の呼び声に耳を傾けて、与えられたお互いの命を、恥ずかしいなどと思って隠してしまうことをせず、神様から与えられた何よりも輝かしいものとして大切にし、愚直に生きていくその務めを果たしてゆきたいと願うのです。
by oji-church | 2016-09-28 14:56 | 牧師からのメッセ-ジ