日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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カテゴリ:牧師からのメッセ-ジ( 501 )

「愛とは与えることだけど」

★昨年7月に起きた相模原の障害者施設での殺傷事件の被害者の中で、実名を公表している尾野一矢さんのご両親がニュースの中で語っておられた言葉が、深く心に残りました。家族の真ん中にいつも一矢さんがいた、とご両親は語られます。「一緒にいて不幸だと思ったことは一度もない。わたしたちに宝だ」と。そのようにして大切に、愛して、一矢さんをご両親は育てて来られました。犯人に対する憎しみがわき起こってくるのを「そればかり考えていると、犯人に負けてしまうから」と敢えて憎しみを封印して、代わりに「障害者は不幸をつくることしかできない」「障害者なんていなくなればいい」という犯人の言葉とたたかうために、顔と名前を明かして自分たちの姿を明らかにしたと言われます。そうしてお母さんが言われた言葉が深く心に残りました。「息子は今回、被害者となったが、他人を傷つけることしかできない容疑者より幸せだ」「一矢は刺されちゃったけど、刺すよりはマシかなって。私は一生懸命かわいがって、いらない子なんかじゃなかったから」。
 この言葉を聞いて、本当に「愛する」とはどんなことなのかを教えられた気がしました。「愛とは与えること」。でもそれは「愛するばっかりで何の見返りもない」わけではないんだということです。愛するということ、自分の弱さをを人にさしだし、与えていくことを、本当に本当に、大切に、丁寧に重ね、育てていくとき、そこには本当に、深い「喜び」があるのだということを教えられました。それは人を憎む気持ちとたたかって打ち勝つ強さを持った「弱さ」「愛すること」なのです。
★自分の「弱さ」など人に差し出し与えたところで何の役に立つだろう、と思われるかもしれません。でもそれこそが、真の意味で「人間」というものを造り上げていくのでしょう。「いらない子なんかじゃない」人間、宝としての人間を、です。お互いの「弱さ」をさしだし合い、「弱さ」によって出会い、繋がれながら、お互いに大切な、宝物である人間になっていく、そういう道を見出し、進んでゆきたいと願います。
by oji-church | 2017-03-08 13:30 | 牧師からのメッセ-ジ
「誰かが弱っているなら」

〈誰かが弱っているなら、わたしが弱らないでいられるでしょうか。誰かがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。〉(コリントの信徒への手紙Ⅱ11章29節)

★先々週から先週にかけて、神学校で日本基督教団の歴史を教える授業を受け持ちました。かつての戦時下、ひたすらに戦争勝利のための「強さ」が追い求められた時代の中で、日本のクリスチャンたちが自分たちのだけの「生き残り」のために、国家崇拝に同調し、戦争を支持し、戦意昂揚に加担していった歴史を神学生たちと一緒に学んでいます。でもそれによって、どれだけ多くの人たちが戦争に駆り立てられ、また戦争によって命を奪われたか計りしれません。戦時下の教会は自分たちだけの生き残りを図って、ある意味でそれは成し遂げられましたが、そこには戦争に駆り立てられ、戦争で命を奪われていった多くの人たち、その「誰か」に心寄せる信仰を失っていたことは否めません。
★今教会はいわゆる「教勢」の落ち込みの中でじり貧の状態であることも神学生たちに教えます。その中でやはり自分たちの「生き残り」のために「強さ」の時代に同調していくことも可能でしょう。ですが、あの戦時下の教会の有様を振り返る時、いま教会が「弱さ」の中に置かれていることの中に、むしろ神様の「恵み」らしきものが感じる気がするのです。この「強さ」の時代の中で、数多く「弱さ」の中で苦労を背負わされ、ゆく先の見えない状況に追い込まれている人たちがいます。今教会が背負わされているじり貧の「弱さ」には、もしかしたら、そんな「弱さ」を背負わされて、苦労している多くの人たち、その「誰か」を離れないように、その「誰か」の傍に居続けるように、という神様の思い、神様の呼びかけが響いているのではないかないと思うのです。
★イエス様に出会い、弱さのままに、裸の姿で、しかしなお前を向いて進んでいく。そうして、同じく弱さを背負った「誰か」と出会わされ、その「誰か」の元を離れずに、弱さゆえの苦労を分かち合い、それを通じて希望を見出していく、心を温かく燃やされていく、そんな信仰の歩みを大切にしてゆきたいと願うものです。
by oji-church | 2017-02-15 09:42 | 牧師からのメッセ-ジ
「信仰を生きるということ」

★2月11日は国の暦では「建国記念日」です。これは日本神話で神武天皇(伝説上の天皇で歴史学的には存在しなかったとされてます)の即位の日が西暦661年旧暦1月1日(現在の暦で2月11日)とされていることによります。戦前は「紀元節」と呼ばれていました。日本基督教団の暦ではこの日は「信教の自由を守る日」となっています(1968年の教団常任常議員会決議)。
★2月に入って神学校で「日本基督教団史」を教えています。1939年に各宗教団体を国の統制下に置くための「宗教団体法」という法律が公布されます。折しも救世軍に対して「英国のスパイ」だとするバッシング・キャンペーンが各地の新聞で巻き起こります。これに恐れをなした日本のプロテスタント教会諸派は、その後雪崩を打って、国の指導に沿った「日本基督教団」という一つの教団の形成へと突き進みます。
★1941年に創られた日本基督教団は、その創立当時の規則の中に「生活綱領」という信徒の生活指針とするべき箇条を掲げています。「本教団ノ生活綱領左ノ如シ 一 皇国ノ道ニ従ヒテ信仰ニ徹シ各其分ヲ尽シテ皇運ヲ扶翼シ奉ルベシ 二 誠実ニ教義ヲ奉ジ主日ヲ守リ公礼拝ニ与リ聖餐ニ倍シ教会ニ対スル義務ニ服スベシ 三 敬虔ノ修行ヲ積ミ家庭ヲ潔メ社会風教ノ改善ニ力ムベシ」。ここでは国の指導する国家崇拝と、日常の「敬虔な」信仰生活とが一つにされて、信徒が生活指針とするように薦められています。当時教会はほとんど、戦争を遂行する国家の一機関となって信徒を戦争へと駆り立てる働きを担っていたのです。その中で信仰は、ただ心の中で信じるだけのもの、具体的な生き方や社会の中には反映されないものになっていきました。
★わたしたちも、ともすると信仰というのは「心の中で信じること」と思ってしまいがちですが、しかし信仰というものは、実際の生活の中での具体的な生き方や働き方として表されないならば、口では「平和の福音」を説きながら、実際には権力や暴力を追い求める世の中の風潮に同調する「偽善」になってしまいます。「信仰を生きる」とはどういうことなのか、簡単なことではありませんが、いつも心のどこかに留めておかなければいけないことでしょう。
by oji-church | 2017-02-08 10:48 | 牧師からのメッセ-ジ
「『誇り』はどこからやって来る?」(2)

★2011年の3月11日の震災後、何度か救援に行きました。今から思えば、そこでわたしがやった救援活動など、いかほどか役に立ったのか、誠に心許ないものでした。ただ、そこで奥羽教区の教会の人たちから教わったことがあります。何かといえば、とにかく体を動かすのだということ。確かに救援の働きそのものの成果はほとんど無きに等しいものだったかもしれませんが、しかしとにかく体を動かして進んでいった時、その先には必ず誰か『人』がいました。苦悩と痛みと悲しみを背負った人たちです。その人たちに対して、わたしも小さな存在に過ぎず、何も役に立つことは出来なかったけれども、少なくとも、そこに向かって身体を動かして進んでいったことで、その人の苦悩と痛みと悲しみの一端を、分かち合うことができただろうか」。そんな思いを持っています。
★人間とは小さな存在です。災害や、国々の大きな権力の横暴による戦争や、大勢の人の塊によって引き起こされる差別や抑圧や、排除や反目を前にして、一人ひとりの裸の人間は誠に弱く、卑小な存在です。だけれども神様は、そんな小さな身の丈のわたしたち一人ひとりに、裸の「わたし自身」を与えて下さいます。そうして、そういうお互いの弱く小さな「わたし自身」を出会わせ、つなぎ合わせていくとき、そこに本当の「誇り」、身の丈に合ったと言っても、実はそれ以上に誇るべきものなどあり得ない、大いなる「誇り」が訪れるのでしょう。「誇り」というものは、「オレってスゴイ」「日本ってスゴイ」と、いくら自分で自分を誉めそやしてみたところで、本当の誇りというものは生まれては来ないでしょう。「誇り」というものは、小さな身の丈の自分自身を担い、その小さくて無力な自分自身を、他の小さく無力な人に触れ合わせ、その小ささ故の弱さや痛みや苦悩や悲しみを分かち合う中から、自ずとわたしたちのもとを訪れてくるものなのでしょう。
by oji-church | 2017-02-02 15:19 | 牧師からのメッセ-ジ
「『誇り』はどこからやって来る?」

★今、夜のテレビ番組を見ていると、毎日と言ってもいい程必ず「日本はスゴイ」という主題の番組が放送されています。自分自身や自分の暮らす国の「よい部分」を見出すことは決して悪いことではありませんが、完璧な人間も完璧な国家も存在しない以上、自分自身の「よい部分」を見出すことが本当に意味あることになるためには、同じだけの注意深さをもって自分の「悪い部分」も直視しなければならないでしょう。
★第一次安倍政権では教育基本法が改定され「愛国心」が盛り込まれました。安保法制が作られて戦争をする体制が整えられています。「日本スゴイ」が連呼される一方で、国立青少年教育振興機構が2015年に公表した調査では、高校生の72%が「自分はダメな人間だと思うことがある」と回答しているとのことです。個人の尊厳が傷つけられる一方で、国の尊厳が称揚される社会というのは危うい社会だと言わなければなりません。
★人間というのは、自分自身の尊さ、尊厳を噛みしめながらでなければ、本当に人間らしく活き活きと生きることのできない存在です。でもいま物事がうまく進まない時代の中で、それがとても難しいことになっています。いきおい身近なところにあるもっとも大きく強いもの、国家というものに自分の尊厳、誇りのよりどころを見つけ出そうとします。けれども国家というのはどんなに優れた国家であっても、それは人間が作りだした、今のところなお未完成の不完全なものです。それゆえ国家というものは、余程注意深く監視し、整えていくことを怠らないようにしなければ、しばしばその大きさ・強さによって生みの親であるはずの人間を飲み込み、食いつぶし、命を奪う存在なのです。ですから自分自身の尊厳、誇りを見出すそうとする時には、手近な大きいもの、強いものにそれを託すより前に、人間の真に奥深いところに問い尋ね、省みながらじっくりと考えてみることが大切なことです。(つづく)
by oji-church | 2017-01-25 12:06 | 牧師からのメッセ-ジ
「人間を創り上げる力」

〈わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。〉(コリントの信徒への手紙Ⅱ10:4~6)。

★人間というのは、誰しも「強さ」と「弱さ」を合わせ持った存在です。強い部分では自分は他の人たちよりも「できる」部分を持っていると考えていますが、ひとたび自分より強い相手に出くわすと、とたんに「弱い自分」が前に出て来ます。そうしてそんな「弱い自分」に劣等感を感じながら、卑屈に振る舞ったりします。同じくらいと思う相手には、虚勢を張って、張り合ってみたり。けれども、そんなふうにしているうちに、わたしたちはきっと自分自身というものをバラバラに崩れさせてしまい、自分という一人の人間の価値、本当の尊さを見出せなくなってしまいます。
★パウロはそんな「強い自分」と「弱い自分」の間で右往左往しているわたしたちに「自分の力に依り頼むな」と呼びかけます。神様の力がわたしたちの存在の芯の部分に働いているんだということを知る時、わたしたちは真実の、キリストにふさわしい穏やかさを見つけ出すことができるのでしょう。それは人間を真に人間らしく創っていく穏やかさです。
★わたしたちの世界は今、国同士も人間同士も互いに虚勢を張って自分を誇り、他を見くびり貶めるような有様を呈しています。このような「人間の強さ」は、やがて人間自身を自分の力によって打ち倒してしまうことでしょう。そうではなく、人間を創り上げる力とが不思議にもわたしたち一人一人には与えられているのだと。この「神様の力」をわたしたち自身の内に見出し、それを確信し、見た目の「弱さ」とは裏腹に、神様の平和と正義を打ち立てるための力強くねばり強い歩みを歩んでゆきたいと願うのです。
by oji-church | 2017-01-17 09:56 | 牧師からのメッセ-ジ
「『生きていく人間』であるために」

★2017年が明けました。まだこの年がどんな年になるのかはわたしたちには分かりません。わたしたちに出来ることは過去を振り返りつつ、そこで経験したことを未来に生かすことだけです。昨年2016年はどんな年だったでしょうか。4月には熊本で大きな地震があり、50人の方が命を奪われました。いまも救援、支援の働きが求められています。10月にも鳥取でやはり大きな地震がありました。さらには11月にも福島県沖の地震により、あの東日本大震災以来、再び津波が起こり、現地の人たちは恐ろしさに打ち震える経験をしなければなりませんでした。このように自然災害が続いている状況は、何かわたしたち人間に警鐘を鳴らしているように思えてなりません。
★メディアではオリンピックの話題がたけなわです。その一方で、オリンピック開催に掛かる費用を巡る駆け引きが連日報道されていました。そもそも遡ってみれば、このオリンピックは「福島の原発は完全にコントロールされている」と、世界中に「嘘」を報告することで招致にいたったものです。
★こうした「嘘」の背景には、「嘘をついて騙しても構わない」という人間を軽視し、見くびる思いが隠れているように思います。こうした人間に対する軽視、侮りは必ず、人間を痛め傷つけても構わないという「暴力」へと繋がっていきます。嘘をついても、力を持つことこそが「正しい」ことだと考えて、嘘や不正を告発されても力でねじ伏せてしまえばいいと考える傲慢な権力崇拝が生まれます。
★権力崇拝が、必ずや人間そのものを破壊し、人間を滅びへと導くものであることを聖書は語っています。真実を見据えるということは、人間を尊重するということです。「滅びへと至る人間」ではなく「生きていく人間」であるために、真実を見据えることを大切にしてゆく1年にしたいと願うものです。
by oji-church | 2017-01-11 16:37 | 牧師からのメッセ-ジ
「一過性の喜びでなく」

〈代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜びとし、その民を喜び楽しむものとして、創造する。……泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない〉(イザヤ書65章18~19節)。

★今わたしたちの暮らす世界では、国同士や民族同士の対立や反目が高まっています。国や民族を繋ぐのは軍事同盟や「お金」といった人間の創り出す「モノ」ばかりです。新しい「モノ」が生み出されれば、それが「光」と見なされます。でもその「光」は、すぐに古び、色あせてしまい、わたしたちはまた別の「モノ」を求めて、際限なく暗闇の中を彷徨うことになります。わたしたちは、そんなわたしたちの時代の暗闇とたたかうために、この暗闇の世界の中から生じてくるのとは違う光を見出さなければなりません。それは、わたしたち人間が創り出すのではない、神様がこの世界にもたらすもの、神様の働きそのものです。
★神様はこの世界を造って、それで働きを止めてしまったわけではない。神様は「わたしは創造した」と過去形で語るのではなく、「わたしは創造する」と現在型で語ります。そして、神様は何を基準に新しい創造の働きを始めようとするのかと言えば、それは「喜び」です。神様はわたしたちに向かって、「あなたがたにとって、本当の喜びとは何なのか」と問いかけておられるのです。それは次々と新しい「モノ」を手に入れることなのか。でもそれは、再びどこかで「泣き声、叫び声」を生み出す一過性の「喜び」に過ぎません。「あなたがたにとって本当の喜びとは何なのか」と問いかける神様に促されて、わたしたちは、わたしたちの一過性の喜びの傍らで、泣き声、叫び声を挙げている人たちの、その泣き声、叫び声に耳を傾け、その悲しみや苦しみを共に感じ受けて、それが本当の喜びへと変わることを目指して歩む道へと押し出されます。
by oji-church | 2016-12-20 15:18 | 牧師からのメッセ-ジ
「無力のちから」

〈あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。……あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んで踊りました〉(ルカによる福音書1章42~44節)。

★マリアさんは友人のエリサベトに会うためにユダの町に出かけていきました。そこでエリサベトはマリアさんに向かって、「あなたは祝福されている。あなたの声を聞いたとき、自分のおなかの中の子が喜びおどったのだから」と言うのです。おなかに赤ちゃんがいる時に、その赤ちゃんが動き出すことがあります。小さな、外からは見えない力です。でもそこには人間のいのちの全体が含まれている、そんな力。その力は、女性より力があると思われている男には絶対に感じ受けることのできない力です。エリサベトは「不妊の女」と言われた女性でした。マリアさんはまったく無力な少女です。どちらも、人間の力に救いを求めようとするこの世の在り方からは、「無用のもの」として隅に置かれ、いつ切り捨てられてもおかしくない「無力」な存在です。でも、そんな無力な存在だからこそ、感じ受けることのできる目に見えない力、小さいけれども、その中にいのちの全てが含まれるような力、というものがあるのではないだろうかと思うのです。妊娠した女性だけが感じられると言っているのではありません。
★エリサベトは言います。「あなたは祝福された人だ。あなたのおなかの赤ちゃんも祝福されている」と。誰が祝福するのか。神様です。人間じゃない。無力な人こそが感じ受けることの出来る見えない小さな力というものがこの世界には働いている。その小さな力を神様は決して見逃すことなく祝福してくださる。だから無理して強くなろうとする必要はない。自分の無力さを隠して、強がってみせる必要もない。この見えない小さな力を祝福してくれる神様がおられる。そのことを知ってマリアさんは、神様のことを喜び、たたえるのです。
by oji-church | 2016-12-14 08:52 | 牧師からのメッセ-ジ
「心の貧しい者は幸い?」(2)

★いま、わたしたちの生きている世界は、先頃のアメリカの大統領選の結果にも現れていたように、とにかく今ここでの目の前の自分の利益や都合を最優先に追い求めて、人を見下し、侮蔑するような動きが各所で強まっています。わたしたちはそんな世界の有様に翻弄されながら生きています。でも、それは本当の意味で人間的とはいえない人間の姿、非人間的な世界の姿でしょう。聖書の福音は、人間の価値というのはそんな目先の利益や都合よりも、もっと大きな、大切なものだと語っているのです。こんなふうに福音に目先の利益や都合に振り回されて、あちこちへと引き回されて、人を見下し、侮蔑するような、そんな人間的ではない、非人間的な世界に奴隷のように繋がれているのは、やりきれないと、そんな自分自身の「悲しみ」に気付いた時、初めて自分の「心の貧しさ」の意識が芽生えるのだと、そう大塚さんは語るのです。
★わたしたちが福音の告げる「人間の尊厳」に目覚めるというのは、目先の利益や都合に左右されて、尊厳を失って生きている自分自身の「悲しみ」を自覚させ、それと同時に、目先の利益や都合に支配される在り方からの解放を与える、というのです。
★聖書の語る福音の大きな広い世界に触れて、生きる「喜び」を与えられた、というのはよく聞くことです。でも、大塚さんが語るのは、福音に触れて、その福音とはほど遠い世界に生きている自分自身のありように、「ほんとうの悲しみ」を与えられる、ということです。これは目先の利益を失うことや、目先の不都合によって生じる一喜一憂とは違う、もっと本質的な「悲しみ」です。しかしこの本質的な「悲しみ」は同時に、人間のほんとうの価値への目覚めを与えるものでもあります。それに目覚めるとき、わたしたちは、目先の利益を追い求めて、人を見下し、人を侮蔑する、この世の差別や罪から解放されて、新しい生き方、視点を変え、生きる方向性を変える、つまり「悔い改めた」生き方を与えられるのでしょう。
by oji-church | 2016-12-07 11:45 | 牧師からのメッセ-ジ