日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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カテゴリ:牧師からのメッセ-ジ( 501 )

「イムジン河の畔」(2)

★韓国と朝鮮は、朝鮮戦争の結果、北緯38度線で分断されて、北と南の二つの国家に分けられてしまっています。歌でよく知られたイムジン河は北と南の境界線にあります。その河のそばに連れていってくださいました。朝鮮戦争時代、そこには鉄橋が架かっていました。爆撃で破壊されたその鉄橋を、朝鮮戦争の最中、荷物を抱えた人々が鉄橋の柱にしがみつきながら鈴なりになって戦火を逃れてくる様子を写した有名な写真もあります。今は破壊されて、橋脚だけが残っています。その脇には、金大中だ大統領が「太陽政策」の中で作った新しい鉄道の鉄橋が架けられていますが、その後、再び朝鮮と韓国の関係は冷えてしまい、いまはまた、閉鎖されています。
 川岸は有刺鉄線で囲われて軍隊の監視所が置かれており、河のほとりに降りていくことはできません。展望台のある高台には、北朝鮮に故郷がある人たちが、韓国のお盆やお正月に先祖を祀るための祭壇が築かれています。周辺には、北と南に分け隔てられてしまっている同胞が、再び平和裡に統一されることを願うメッセージを書いたリボンが、壁に無数に結びつけられています。今回、わたしがよく知り合っているソウル老会の牧師さん方の多くが、家族が北出身であることも知りました。北には親族もいるはずですが、まったく消息はつかめません。韓国の人たちは、北朝鮮の人たちとの間に、血の繋がった一人一人の顔を思い描くことのできる繋がりを持っているのです。ですから、韓国の人たちが北朝鮮に対して持っている感情は、「敵意」や「憎しみ」「恐れ」よりも、根本的には深い深い「悲しみ」の感情であると言っていいのではないかと思います。日本人が、そのように現在の朝鮮のありようを、「悲しみ」を共有しつつ思い描くことができるかどうか、問われた気がします。
by oji-church | 2017-05-17 10:34 | 牧師からのメッセ-ジ
「イムジン河の畔」(1)

★4月17日から20日にかけて、韓国基督教長老会ソウル老会の定期会に出席するため、ソウルに行きました。日本では連日、アメリカと北朝鮮が一触即発の事態にあるかのような報道がなされていました。韓国でも同じように皆が深刻な危機感の中で緊張しながら暮らしているかのような報道です。帰ってきた今も同じような報道が繰り返されていますし、わたし自身も実際に行くまでは、韓国の人たちも同じような危機感の中で暮らしているものと思い描いて、「一緒に平和を祈りましょう」というメッセージを携えて行く準備をしていました。しかし、実際に韓国に行ってみると、韓国の人たちは、ごく普通の当たり前の日常の生活を続けていました。むしろ、日本でそんな大騒ぎになっていることに驚くと同時に、あきれてもいました。韓国の人たちは、こうした危機感というのが、一部の権力を持つ人たちが自分たちに都合良く社会を動かそうとして「演じられている」ものだということを、日本人よりも余程冷静に見極めている感じがしました。何故かと言えばそれは、日本による過酷な植民地支配に置かれた戦前・戦中、戦後も、朝鮮戦争や、軍事独裁政権に対する民主化闘争など、数々の厳しい社会情勢を乗り越えてくる中で韓国の人たちが培ってきた社会というものに対する確かな見識というものがあるのだろうと感じます。しかしそれとは別に、もっともっと大事なものを、韓国の人たちは日本人と違って、持っているということを今回の旅で感じさせられました。
★定期会の翌日、ソウル老会の人たちが、わたしたちをあるところへ連れて行ってくださいました。それはソウルから車に乗って、一時間足らずのところ。ソウルの町の真ん中には漢河(ハンガン)という大きな河が流れていますが、その川沿いを河口に向かって車で進んでいくと、河口の近くで別の河との合流点があります。別の河というのはイムジン河という名前の河です。(つづく)
by oji-church | 2017-05-10 14:27 | 牧師からのメッセ-ジ
「知るとは愛すること」

〈一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった〉(ルカによる福音書24章30~31節)

★イエス様が十字架に付けられて殺された後、二人の弟子たちは復活したイエス様に出会いますが、二人はそれがイエスだとは気付かず、通りすがりの旅人と思って「そんなことも知らないのか」とイエス様が十字架に掛けられて殺されたことを「オレの方が知っている」とばかりに得々と説いて聞かせます。すぐ目の前に、隣りにいる人を、同じ人間とわかっていながら、人間として心通わせて出会うことができない。そんな人間の弱さ、不完全さを、わたしたち誰しもが実は持っています。
★日暮れが近づき、二人の弟子たちは、なお先に進もうとされる旅人を、エマオの村にある自分の家に強いて招きます。そこでイエス様と二人が食事の席に着き、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡したその時、はじめて二人の「目が開け、イエスだと分かった」と語られています。
★韓国では「食口(シック)」という、「一つのお皿からみんなで食べれば、もうそれで家族だ」そんな意味の言葉があります。人間は食べなければ生きては行かれない存在です。そんなある意味で人間の持っているどうしようもない弱さを、「一緒に食べる」ということは、共に分かち合うという意味があるのだと思います。そういう意味で、「一緒に食べる」というのは「愛する」ということの一つの形でもあるのでしょう。一つのパンを分かち合い、そのようして「愛する」ことをした時、はじめて目が「開けて」、弟子たちは「イエスだと分かった」のです。
★「一緒に食べること」は「愛すること」、「知る」とは「愛すること」。一緒に食べることを通じてわたしたちがお互いを知り合う時、そこに「愛すること」が起こっています。今、隣国同士、敵意や競合がわき起こっている中で、大切にしなければならないことかもしれません。
by oji-church | 2017-05-03 11:33 | 牧師からのメッセ-ジ
「韓国での出会いから」

★4月17日から20日にかけて、北支区長として韓国基督教長老会ソウル老会(「ソウル教区」のようなもの)の定期会(「総会」のようなもの)に出席するためにソウルを訪問しました。これで定期会に出席するのは4度目になりますが、毎回行くたびに、ソウル老会の方々は多忙を極める中で歓迎され、盛んな食事の接待や、韓国内の歴史を学ばせてもらえるいろいろな場所に連れて行っていただけることは本当に有り難く、感謝のしようもない程です。
★この間、知り合うことのできた牧師さんの中に、イン・ヨンナム先生がおられます。一昨年までソウル老会の総務(事務の総責任者のようなお仕事)を務めておられました。普段コワモテながら冗談ばかり言っている気さくな方ですが、本当に律儀な方で、定期会のお仕事やご自分の教会の働き(韓国の教会は毎朝5時くらいに早天祈祷会が行われます)に忙しい中を縫って、夕食後、ただわたしたちと一杯のコーヒーを飲むためだけに駆けつけてくださいました。一昨年、わたしが個人で韓国を訪れたときもホテルの手配をしてくださり、ソウル以外の町で泊まりがけで重要な会議をしている最中に時間を作ってソウルまで出て来てくださり、夕食をご馳走してくださいました。今回も、最後はただわたしたちをほんの一瞬見送るためだけに、車で1時間弱かかる空港まで駆けつけてくださいました。韓国の方々のこうした篤い懇意を有り難く思うと同時に、わたしたち日本人が見習わなければならないことだなあと思わされます。
★そのイン・ヨンナム牧師から、いまご自身が牧されているヒョンソ教会と王子教会とで交流を結びましょうとの提案を頂きました。本当に有り難く思いました。ぜひ実現に繋げて、本当に顔と顔とを合わせた出会いと繋がりを形作っていきたいと願っています。
by oji-church | 2017-04-26 13:36 | 牧師からのメッセ-ジ
「ののはな」

★寒かった3月から、4月に入ってようやく春らしい気候になってきました。教会の植え込みの花もそれぞれに色とりどりの花を咲かせて、心を和ませてくれています。それぞれにいろいろな人が植えたもので、ほとんど手入れもしていないのに毎年こうして花を結んでくれることに感謝の思いで一杯です。この花々の姿から学ばされることはたくさんあります。
★「ののはな」の名前を冠した子ども食堂にも、一人また一人といろいろなところから子どもたちが集まってくるようになりました。ささやかな「居場所」ですが、本当にこの場所を楽しみにしてくれ、またここで出会って友だちになったつながりを、本当に喜んで大切にし合ってくれています。その姿を見るにつけ、まさに「野の花を見よ。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」という言葉の真実を教えられます。
by oji-church | 2017-04-21 15:16 | 牧師からのメッセ-ジ
「つまずきましょう」(3)

★振り返ればこれまで、自分がサービスを受けることより、人のために立ち働く人が、他の誰よりも生き生きと喜んでいる姿に出会わされてきたなあと思わされます。心身の不自由など「弱さ」を負って小さくされた人から、あるいは小さな子どもから、力強く人を励まされ、背中を押されたことは何度も。わたしなどよりもよほど厳しい貧しさの中にある人から招かれて、歓待を受けたことは数知れず。そんな、この世の常識をひっくり返したような生き様に触れさせられてきた。その度毎に、いっぱしに一人前のこの世の、世間の常識を身につけてきたと思っていた自分自身をつまづかせられ、打ち砕かれてきました。でもその度毎に、神様から与えられてある本当の「いのち」というものに触れさせられてきたようにも思う。
★この世の「当たり前」をひっくり返す神様の働きは、この世の表側からは見えないところで確かに、今日も今も働いて働いているます。
by oji-church | 2017-04-12 16:15 | 牧師からのメッセ-ジ
「つまずきましょう」(2)

★「コレハドウイウコトダロウカ? 力が弱さの中でこそ発揮されるというのは、仕えられるためではなく、仕えるために来るというのは、最も小さい者が、最も偉い者だというのは、貧しい人々が幸いだというのは?」。考え始めると、ワケが分からなくなる。心が乱されて、バラバラになる。つまづき転んで、自分というものが地面に落ちた卵のように割れる経験をする。
★「人の子は必ず多くの苦しみを受けて、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される」というイエス様の言葉を聞いて、ペトロは「そんな物騒なことを言っちゃいけません」と、この世の物の考え方からすれば当たり前のことを言ったはずでしたが、それを「サタン、引き下がれ」とこっぴどくイエス様からこっぴどく叱られて、ペトロの心は乱れ、砕かれ、バラバラになったことでしょう。でもそんな乱れ、砕かれた心でもって、もう一度この世界を見直してみるとき、この世界が違って見えてくるということがあるのじゃないか。
★これまで当たり前と思ってきたことが、当たり前じゃなく見えてくることがあるのじゃないか、と思うのです。「当たり前」と思っていた自分自身が砕かれて、「当たり前」の自分自身が砕かれることによって、はじめて、「いのち」というものの本当の姿が見えてくるのです。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の特があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」。これが「いのち」というものの本当の姿です。この世の常識とは正反対の。
by oji-church | 2017-04-05 10:20 | 牧師からのメッセ-ジ
「つまずきましょう」

★「つまずく」という教会用語があります。人のクリスチャン「らしくない」振る舞いによって、信仰を持って生きる気力を奪われたという意味。元は何らか挫折を経験して、そこから先に進めなくなってしまうという意味でしょう。「つまずく」というのはあまりいい意味で使われません。けれども、この言葉が大切なこととして語られている場面もあります。パウロは、自分がこれまでのユダヤ教のように、救われるためには割礼が必要だと宣べ伝えていたとすれば、「十字架のつまずきもなくなっていたでしょう」と語っています。つまり、イエス様のことを宣べ伝えるときには、必ず「つまずき」というものが伴うんだと言っています。
★イエスを宣べ伝えること、それは、この世の中の、世間一般の普通の見方、考え方をひっくり返すようなことを宣べ伝えるということです。そしてそれはこの世の中の表側の、目に見えるありようからは見えないことです。この世の中の表側の目に見えるありようだけを見て生きている時、わたしたちはどうしたって、イエス様の言葉やイエス様の生き方に、つまずかざるを得ないのです。
★「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために来たのだ」。「最も小さい者こそ、最も偉い者だ」。「貧しい人びとは幸いだ」。そんなのはこの世の常識とは違う。そんなことあるわけがない、と。わたしたちはつまずきます。そこでつまずいて止まってしまい、また世間の常識的なものの見方、考え方に帰っていくこともできます。でも、そんなふうに聖書の言葉につまずいた時が、チャンスでもあるのだと思うのです。「コレハドウイウコトカ? 仕えられるためではなく、仕えるために来るというのは、最も小さい者が最も偉い者だというのは、貧しい人々が幸いだというのは?」。考え始めると、ワケが分からなくなる。心が乱されて、バラバラになる。つまずき転んで、自分というものが地面に落ちた卵のように割れる経験。しかしそこが「始まり」なのです。(つづく)
by oji-church | 2017-03-30 16:05 | 牧師からのメッセ-ジ
「弱さの傍らにいることこそ」

〈力は弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ〉(コリントの信徒への手紙二12章9節)。

★いまわたしたちの生きる世界は、アメリカの大統領の選出によく現れているように、どの国も、どの人間も、競って我勝ちに自分の利潤、利益を追い求める世界になっています。この利潤競争に打ち勝つための「強さ」が求められる時代です。その中で、わたしたち一般の人びとは権力を持つ人たちに煽り建てられるようにして、お互いにお互いを分け隔てて対立し合い、貶め合い、憎しみをぶつけ合う様相を呈しています。そんな醜い自分自身の有様を繕うために、嘘偽りがそこら中に横行はびこっています。その傍らで、貧しい人や難民となる人びとが犠牲とされています。そのように「強いことこそいいことだ」と考えてきた末に、わたしたち人間の世界は、おそろしく醜く、また残酷な世界になっているのではないでしょうか。
★わたし自身も、自分の「能力」だとか「粘り強さ」(執念深さ?)だとか、そんな自分の「強さ」を頼りにしようとしている自分がいることに気付かされます。でもそんな自分の「強さ」が綻ぶとき、わたしもきっと醜く、残酷な姿をしているのです。
★「子ども食堂」を開いて、学校や家庭になかなか「居場所」を見出すことのできない子どもたちを迎えにいって、隣り合って歩き、肩を寄せて一緒に食事の準備をし、遊び、食べる、そんなささやかな「居場所」の中で、自分自身の「強さ」を解かれ、弱さの中からほんとうの「喜んで生きる力」が沸き上がってくる経験をします。嘘偽りで自分を取り繕う必要はまったくありません。ああ、これが「力は弱さの中で発揮される」ということなのかなあと思い至ります。「弱いことこそ、いいことだ」「弱さの傍らにいることこそ、嬉しいことだ」、掛け値無しにそう言い合える世の中を待ち望みたいと思うのです。
by oji-church | 2017-03-22 11:33 | 牧師からのメッセ-ジ
「語る言葉を持たない声に耳を寄せて」

〈イエスは……一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われた。『わたしの名のためいこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。……あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である』〉(ルカによる福音書9章47~48節)。

★イエス様は、「誰が一番偉いか」という議論に対して「自分が一番偉い」「自分が一番正しい」とは言わないのです。「自分が一番偉い」「自分が一番正しい」のだから、自分の言うことを聞け、自分を受け入れろ、とは言われないのです。そうではなくて、一人の子どもの手を取ってそばに立たせて、この子を「受け入れなさい」と言われるのです。弟子たちはびっくりしたでしょう。子どもというのは当時、ただただ世話の必要な厄介者と見なされていました。「子どもの人権」などと言われるようになったのはごくごく最近のことです。そんな中、イエス様は「誰が一番偉いか」という議論に対して「この子どもを受け入れなさい」と、つまりは「この子どもの言うことを聞きなさい」と言われたのです。そして、それがイエス様を受け入れるということであり、神様を受け入れるということなんだと言ったのです。「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」。
★よくわたしたちは謙遜して「わたしなど小さな者です」なんて言ってみたりしますが、実はそれは、ここでのイエス様の言葉に照らしてみれば「エライ」ことを言っていることになります。「自分が一番偉い」と言っていることになるのですから。「わたしなど小さな者です」と「言える」ということは、実は結構自己主張している、ということでもあるわけです。
★大人たちの間に立たされた子どもは「わたしなど小さな者です」とも言えなかったでしょう。語る言葉を持っていなかったでしょう。でもそんな小さな子どものように「語る言葉」さえ持たない者、その「弱さ」「小ささ」に、じっと耳を寄せて、耳を傾け、受けとめていくことの中に、わたしたちが神様を受け入れる、神様に聞き従って生きていくという道筋があるんだ、といういことを、イエス様は弟子たちに示されたのではないでしょうか。
by oji-church | 2017-03-15 10:53 | 牧師からのメッセ-ジ